浜から窓をめがけて、声をそろへて、
「ムスビとサイダーを持つて来てくれーツ」などゝ叫んだ。一度で反響がないと、反響があるまで同じ言葉を繰り返したりした。
「毎日、こんなことをしてゐれば、俺は実に呑気で、平気だね。」
「あそこにペンキ塗りの家を建てゝゐるだらう、あれは何でも東京風のカフエーにするんだつて話だぜ。」
「そいつア好いな。」と、藤村は膝を叩いた。
「反つて斯ういふ処には、素晴しい美人が忽然と現れるかも知れないぜ。」
「山の家の方に追ひやられるといふのは何時頃だらう。」
「夏になると、家の者や親類の奴が、交り交りに出掛けてくるんだらう。それとも親爺の慾深が、誰かに法外の値段で売りつける話にでもなつたのかも知れないよ。何でも大分僕の家は、この頃景気が悪いらしいから。」
「厭だな、山の方へ行くのは……」
「きつとさうだ、売るに違ひないんだ、――山の家といふのは君、それやアひどいものだぜ、地所の目標代りに立てた掘立小屋同様のものなんだ。」
「ぢや湯なんて引いてなからう。」
「湯どこの騒ぎぢやない。つまりあそこへ行けば畑の見張り番にされるわけなんだよ。」
「見張り番! でも好いな、さういふ職業にありつけるだけでも――」
「僕は、厭だな、――いつそ東京にでも行つてしまふよ。」
「君が東京へ行くんなら僕も一処に行くよ。」
「その方が好さゝうだね。」
「…………」
「…………」
「つまらない話は、止さう/\。」
「さて、……君、もう逆立ちで、いくつ歩ける?」
「歩くのは出来ない。」
「僕は、トンボ返りが出来るやうになつた、いゝかへ、見て御覧!」
斯う云つてシヤツ一枚になつた藤村は、見事なトンボ返りを打つたり、パクパクと汀のところまで逆立ちで歩いたりした。私も、その練習をした。――そして私達は、疲れて帰るのであつた。
晩春が過ぎ、玩具《おもちや》のやうなケイベン鉄道の笛の音が、麦畑の間からピーと聞え、海の色も紫がゝつた。間もなく、梅雨期に入つたのである。主に冬の浴客を呼んでゐたこの町では、今年からは「夏の宣伝」を仕ようといふ議が起つて、町の公会堂では演説会が催された。
「演説を聞きに行つて見ようか。」
隣家の町会議員に誘はれて藤村は、困つて、私に話しかけた。私は、それには答へないで、議員に向つてうつかり、
「トンネルは何時頃出来あがるんですか?」と、訊ねて、議員の情熱のこもつた長い説明に出遇つて辟易したりした。
未だ、五年かゝるか、十年かゝるか先きの見込みはつかない、今では、山と人間の意地との戦ひになつてゐる。山にしたつて、ドテツ腹に風穴をあけられやうとするんだから、黙つてもゐられまい、水を吐いて防ぎもしよう、火も吐くであらう――そんな意味のことを議員は述べたりした。
小雨に煙つてゐる山からは、一日に三つ位大きな音響が響き、その間にもいくつかの爆音が続いてゐた。
「だが、一朝事成れば、トンネルと共に吾が町も、一躍世界的の名所になる。」と、議員は云つた。彼が立ち去つた時藤村は、
「あの人は、今夜の演説の練習をして行つたに違ひないよ――屹度、あれと同じ調子でやるぜ。行つて見ようか?」と云つた。
「悪いから止さう。」
「君は、変だ。僕は、何もあの人を軽蔑して云つたのぢやないぜ。」
「そりや、僕だつて……」と私は、慌てゝ付け加へた。おそらく神経衰弱にでもなりかゝつてゐたのだらう、自分の存在は何処に置かれても邪魔なものなのだ――そんな途方もない消極的な妄想に駆られてゐたのだ。
「悪いからだつて……気障だなア。が、まア止さうよ、僕だつて――」
「…………」
「おい、変に瞑想的な顔をするのは止めて呉れよ。……あゝ、何しろ雨には敵はないね、この頃ぢや運動不足のせゐか、酒を飲んでもたゞ翌日気持が悪いばかりで、うつかりすると寝そびれてしまふなア!」
藤村は、斯う云つて上向けに寝転び、天井を眺めて口笛を吹いた。
この時、また山の音響が二つ三つ続けて鳴り渡つた。――藤村は、
「ヤツ!」と云つて、坐り直した。「それにしても、近頃はバカに頻繁だな。」
「一寸、好いぢやないか。」
私は、細く低い声でそんなことを云つた。音響が、そんなものではビクともしない、といふ風にも見ゆるし、また、あゝ怖ろしい怖ろしい、凝ツと静かにしてゐよう「宿かり」のやうに、といふ風にも見ゆる煙つた町の多くの家々の上を、波のやうに走つて行く姿や、また何処かの部屋でも湯治客などが、トンネルを話材にしてゐるであらうことなどを私は、想像しながら、自分が細かい叙情的気分に欠けてゐることを今更のやうに物足りなく思つたりした。
「チヨツ! 厭だな。」
藤村は、ひとりでそんなことを呟いて、その頭をコツンと拳固で叩いた。――「一体僕は、普通なら斯んなに驚き易い性分ぢやない筈なんだがね。」
私
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