―」と、また藤村は云つた。そんなに無理に喋舌らないでも好いのに――などゝ私は思つたりした。――「だが、そんなものを知らない観光団か何かゞ……」
 おや、午砲のことを云つてゐるんだな――と私は思つた。
「観光団だつて!」
「さう、いちいち眼を視張《みは》るなよ……」と藤村は、困つて笑つた。
「いや僕は、観光団といふ言葉を聞くと、妙な懐しさを感ぜずには居《を》られないんだ。」
「ミス・フローラか?」
「……………」
 私は、点頭《うなづ》くやうな、さうでもないやうな顔をしてゐた。
「今は、煩悩の話をしてゐるんぢやないよ、バカだな。――えゝと、その何処かの観光団か何かゞだね、人力車にでも乗つて歩いてゐるとするんだね、つまり、その丸の内あたりをだね、――その時突然、午砲《どん》を聞いたら如何だらう、と云ふんだ、その驚きは、この驚きに比べて如何だらう、音響のそれと同じく、驚きといふ一つの感情も、或る程度を超えてゐる時には、ドの驚き、レの驚き、ミの驚き、そんな区別のある筈はないね。いや、僕のこの頃の気持では、東京にゐたつて、うつかり午砲などに出遇へば屹度飛びあがるに違ひないんだ……」
「何にしても、あまり馬鹿々々しく大きな話は面白くないね。」と、私は云つて鬱陶しい顔をした。――私は、ミス・Fのことを思ひ出してゐたのである。
 雨に降りこめられた私達は、止むなく異様に愚かな饒舌家に変つてゐた、四五日も前から――。二人とも自分では気づいてゐなかつたが、未だ嘗て斯んな種類の饒舌家になつた経験は、一度もなかつた。私達は、晴れた日だけ仕事に出かける漁夫が、雨に降り込められてゐるのにも似てゐた。だが、漁夫には網を作る仕事もあるだらう、炉を囲んで、この次の綱の張り方に就いて仲間の者達と、熱心な計画や研究もしなければならないであらう、私達は、漁夫の無能の弟子に等しかつたのである。
 一体自分達は、この先き何になるんだらう――二人の胸には一様にさういふ不安が蟠《わだか》まつてゐたのだ。怠惰と、浮々としたお調子者、他愛もない失恋、親との不和、そして二人とも夫々別々な私立大学を卒業してゐるのだが、学校では何も覚えなかつた、今では、たつた一つの肩書であつた「大学生」も奪はれて、キョトンとしてゐるより他に能がなかつた。
「何処かに寛大なお伽噺作家がゐて、僕達二人を、その作中の端役にでも好いから使つて呉れる人はないかね。」
 そんなことを、殊のほか無気になつて話し合ふことすらあつた。
 藤村は、実家を追はれて(勿論、型通りに古風な放埒と古風な親の譴責から――)、これもまた殆ど同じ状態で、この町に追はれてゐる私の寓居に二ヶ月ばかり前から滞留してゐるのであつた。私のは、藤村のそれと比べて、一オクタルヴ位の差違はあつたかも知らないが、破境となれば先程の藤村の無稽な比喩が正しくあたつてゐる単純な音響のやうなものである。父親と衝突して斯んな処に逃れ、父親の怖ろしい顔に悸《ふる》へながら、愚劣な日を送つてゐる青年の心の悲しみなどに、何処に同情などを寄せる人が有るべくもない。だから二人は、薄気味悪い程の親しさに打ち溶けてゐるのだ。幸ひにも私が斯んな逃げ場所を持ち、そして母の情をつないでゐたから、斯うしてゐられたものゝ、若しそれがなかつたならば私達は、トンネル工事の手伝ひか、漁夫の弟子にでもなるより他はなかつたらう。
「僕は、漁師の手下にならなれる自信があるが、君はどうだ。」
 藤村は、そんなことも云つた。
「僕は、出船の合図に、法螺を吹く掛りがあるね、あれにならなれる自信があるんだ。ラッパの素養があるから。」と、私は答へた。
「あれは何処で売つてゐるだらう?」
「あいつを練習するのも一寸興味があるな。」
「あれが、うまく吹ければ行者にだつてなれるだらうね。」
「欲しいなア!」
「江の島では、たしか売つてゐたと思ふが。」
 私達は、そんな話に花を咲かせたりした。
 雨程、思想のない、そして何の落つきも持たない私達を困らせたものはなかつた。雨にならないうちは、気持の鬱屈には何の変りもなかつたが私達は、カラ元気を振りしぼつて、毎日海辺へ降りて、痩ツぽち同志の角力を取つたり、駆け競べをしたり、逆立ちの練習をしたり、時には、自転車の遠乗りを行《おこな》つたり、などして夕暮脚を引きずツて帰ると、まつたく落第書生のヤケ酒のかたちで、好きでもない酒などを飲み、そして時代おくれの学生となつて粗野な酩酊に陥り、毎晩同じな歌を高唱したり、出鱈目な踊りを踊つてゲロを吐いたり、突然あらん限りの声を張りあげて体操の号令を叫んだり、して死んだやうに眠つてしまふのであつた。そして朝は、寝坊の競争をして、午近くになつて花々しく起床して、跣足で海辺に駆け出すのであつた。
 家は、海辺の石垣のそばにあつた。私達は、砂
前へ 次へ
全9ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング