は、僕も、いや僕達はこの頃たしかに神経衰弱とやらに陥つてゐるに違ひないんだよ――と、云ひたいところだつたが、うつかり調子に乗ると、決して笑ひたくない藤村が、一寸でも擽られるやうな思ひに打たれると縦令《たとへ》厭々ながらであらうとも、さういふ癖の彼は、何とか皮肉な文句でも思案せずには居られないで――いや俺は、一寸センチメンタルな芝居を演つて見たところなんだよ――などゝ云ふであらう、それが私には、何だか彼のために痛ましい気がしたのである。性来エゴイストである私が、縦令曲りなりにもそんな風に他人の感情などを憶測することなどは稀な話なのだが、私の心も酷く雨に祟られて、因循に歪み、後方《あと》へばかり逼つてゐたのである。――私達は、まつたく二個の木像に相違なかつた。パクパクと口だけは動かすが、それは無理な糸で操られながら余儀なくする不自然な働きに過ぎなかつたのである。
「不良児なんてものは、案外臆病なものなんだらうね、殊に斯ういふ種類の……」
 私は、そんなことを云つて、笑つて藤村を見たりした。
「斯ういふ種類のね……」
 藤村は、直ぐに私の言葉を奪つて、頤を突き出して私を差した。――「兎も角、一日も早く入梅が明けて呉れなければ、救からないね、いくら入梅だと云つたつて、斯うも毎日降らなくても好さゝうなものだが……」
「さうだなア……」
「晴れやアがつたら!」と、藤村は叫んだ。――「ウント、泳いでやるぞ、あゝツ!」
「雷が鳴らないうちは、梅雨は明けないんだつてね。」
「変なことを知つてゐやアがるな。――止してくれよ、雷なんて……」
 細かい雨が切《しき》りに降つてゐた。海には、今時珍らしく古風な二本マストの帆船が、この間うちからずつと滞留してゐる。この船の錨が巻かれ、帆があげられて走り出す光景は、一寸想像し難い姿で、凝ツと船は五月雨に濡れてゐた。

[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]

 藤村は、未だ眠つてゐる。
 午少し過ぎなのであるが海の色は、恰で夕暮のやうである。――暫く寝床のなかで夫々天井を眺めながらつまらない話をしてゐたのだが、いつの間にか藤村は眠つてしまつた。見ると軽い鼾をたてゝ彼は、口を開けて眠つてゐた。この間私も藤村から、口を開いて眠つてゐたよ、と云つて冷かされたのであるが、今彼の寝顔を見ると私は、痛ましい憂鬱を強ひられた。おそらく彼も私のそれを眺めた時そんな気がしたに違ひないのだらうが、私を笑はせ鬱気を払ふために強ひてあんな冷かしを云つたのであらう、私の心には今はそれ程の努力もない……。
[#横組み]“Hurrah”[#横組み終わり]
 私は、ふとそんな声を聞いた。――私は、悸《をど》された。胸がひとつ不気味に鳴つた。振り返つて見ると藤村の寝顔には、変な微笑が浮んでゐる。彼が、口のうちで何かわけのわからぬ寝言を呟いたのであつた。――それを私は、そんな風に聞き違へて感じた、といふより、汽車の轍の音や時計の音が聞きやうに依つては様々な種類に聞かれる、あれと同じものだつたのである。例へば、コケコッコーでも、カック・ア・ダッダルドウでも※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の声だらうし、太鼓の音を、ドンドンドンと吾々の幼時から云ひ現はし慣れてはゐるが、ラッバダブ・ラツバダブでも別段に反対の称《とな》へようもない――まつたく私は藤村の寝言の叫びを[#横組み]“Hurrah!”[#横組み終わり]と聞いたのである。
 おやツ! と、私は思つた。冷くて甘いものに一閃胸を撫でられた。
(……なアんだ! Flora のことか。)
 私は、その窓の下の細い道が一筋、ずつと右手の方に突き出てゐる岬の中腹を縫つて、指先で弧を描いた程に小さいトンネルの中に消えてゐるところまで視線を追うた。
(あの半町足らずのトンネルは、たしか環魚洞《くわんぎよどう》とかといふ物々しい名前の名所だつたな? あれをくゞり抜けたところが、潮見崎《しほみざき》? うむ、さうだ。――今度は未だ彼処には、一度も行つて見なかつたな。晴れたらひとつ藤村を誘つて、あの道をずつと先きまで歩いて見ようかな。)
 湾に添うて拾つて行くと、ゆるやかな螺状の道は次第に断崖の中腹にのぼり、環魚洞が頂点なのである、其処が岬の突端で道は断崖を指し、まさしく絶壁を見降してゐる――私は、その出鼻に立つて、背中合せの断層を見あげ、脚下数十丈の海を見降ろすことを想像すると、にわかに足の裏がムズムズして、身は忽ち鞠になる震へを覚えた。
 いつか藤村が、あの岬を指差して自転車の遠乗りを主張したのであつたが、その時も私は同じ震へを覚えて膚《はだへ》に粟を生じ、頑として車輪を反対の方角に向けた位である。
[#横組み]“Hurrah!”[#横組み終わり]
 さうだ、私は、Flora の感嘆の声を思ひ起したの
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