である。――彼女が、さう叫んだ時私は、「なるほど――」と、彼女に微笑を感じたことを思ひ出した。――如何程物凄い絶景に出遇はうとも私には、とてもそんなに快活な声はあげられない。
[#横組み]“Hurrah!”[#横組み終わり]
「…………」
 私も、脚を震はせて石欄に凭り、脚下の怒濤を見降ろしたのであるが――なるほどね、そんな言葉は、初歩英文法の Iterjection の項にだけ引かれる非実際的な模範語かとばかり思つてゐたんだが……なるほどね、云ふんだね、こんな場合に――Hurrah ……。
 異人種との交際に慣れない私は、変に感心したのである。そしてもう可成り打ち溶けてゐる筈の彼女に、今更のやうに新しく、まんまと研究資料にしてやつたほどの白々しさを感じたのである。
 と、だけなら何の今頃思ひ出しても胸を塞がれる思ひもないんだが、同時にこの冷い語学研究生は、絶景に接して放たれた彼女の清らかな亢奮の詞《ことば》に、甘く胸を塞がれる肉感を覚えたのである、そしてたゞでさへ欄干から波を見降ろしてゐる私の五体は、硝子管に化してゐたのが、危く怖ろしい夢に酔はされたのである。――だから私は、今だにあそこの風景を想像したゞけでも眼が眩むのである。二年も前の話なんだが。
[#横組み]“Hurrah! Hurrah!”[#横組み終わり]
 私は、岬を望みながら秘かに故意《わざ》とらしくそんな声を繰り返して、胸の熱くなる思ひに打たれた、風景を消して、眼の前に彼女だけを思ひ描いて――。余程の無理をしないと彼女だけ[#「だけ」に傍点]は思ひ描けなかつた、渺たる私たちを環魚洞の風景が執拗に抱きたがつた。
 藤村は、微な鼾をたてゝ眠つてゐる。
 他人の寝顔を覗くなどゝは何といふ非礼な話だらう――私は、自分をそんな風に叱つた。
 ……(彼は、自分が近頃失恋をした相手の人の話などは殆ど聞さないが、間が濃密であればあつた程他人になど話す興味もあるまい。その反対の間であつた私は、稍ともすれば心境を誇張して、失恋の域にも達してゐない程のことを悲し気に吹聴する卑しい癖を持つてゐる。彼こそ斯うして眠りながら失うた恋の楽しい夢路を辿つてゐるに相違ない――夢を醒まさないやうに努めよう。)
 いつの間にか雨の密度が増したらしく、岬のあたりは一抹の滲みを引いて模糊としてゐた。――だが、私が二年程前、彼女とあそこまで初めての探勝を試みた日は、アジロ通ひのガタ馬車が円かなラッパの音を撒きちらしながら戛々《かつ/\》と走つてゐた麗らかな夏の朝であつた。
「三日間、ジュンと一処に送つたら病気になつてしまふだらう、ワタシは。」
「僕は、いつも云ふ通り散歩は嫌ひなんだよ、第一どんなに立派な景色を見ても、さつぱり面白くないんでね。」
「それは自分の国の見慣れた景色だから、さう思ふんではなからうか?」
「いや違ふんだ、僕は、嘗て旅行もしたことはないし、この町にだけは何遍か来たことはあるんだが、あの岬の先きまでも行つたことはないんだ、何時でも進んで留守居番だけを引受け通したよ。」
「あはれな案内者ですね。」
「おや/\、いつの間に案内者にされたのかね。唖の案内者を伴れて歩くなんて随分君も物好きな人だよ。」
「ホッホッホ……」
「だがね、唖だと云つてもあまり軽く見て貰はれると僕は、迷惑するんだ。」
 私達は、ともかく愉快な気持で、そんな他愛もない会話を取り換しながら夫々杖を曳いて、山を見あげたり海を見降したりしながら一筋の崖道を歩いてゐた。
「ほんたうに――」
 私は、半分ふざけた口調で、だが妙な力を込めて思はせ振りな笑ひを浮べた。相手の語調に合せる為に此方の言葉も気持も芝居でも演つてゐるほどなギゴチなさになつてゐるのが、反つて私の心を明るく無責任におどけさせて、婦人に対する羞恥心を紛らせるのであつた。若し私が、自分と同種族の美女と語らふ場合があるとすれば私は、大人らしい引込み思案で、非常な唖になる筈だつた。――彼女には私は、割合に大胆だつた。臆測、邪推、因循な遠慮、言葉の表裏――それらの不純粋に慣らされてゐた私が、彼女を軽蔑してゐるわけではなかつたが、それらの感情からは見事に救はれてゐる気がするのであつた。
「迷惑《トラブルサム》? ぢやお前の胸にはいつも何かの計画《プログラム》があるの?」
 彼女は、私のことを、ジユンと称んだり、アナタと云つたり、お前と呼んだり、時にはキミなどゝ云ふこともあつた。
「プログラムだつて?」
 うつかり私は、顔を赤くした。私は、決して彼女の前で英語を用ひたことがなかつた、用ひたくても不得意であつたし――。で私は、往々彼女の言葉の間にはさまれる英単語や英動詞を誤解して、あらぬ苦悶を強ひられる場合もあるんだが、この時は、お前は私に恋をしてゐるんだらう、ハッハッハ、と笑
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