は、彼女に依つて英文法の実地研究をしたことを、今だに面白く思ひつゞける……。
 私は、煙つた岬を眺めながら、手の平をそつと頬にあてゝ見た。――何といふ温い手の平であることよ!
「俺は、語学か、或ひは昆虫学の研究に今後没頭しようかしら!」
 私は、ひよいとそんなことを思つたが、苦笑も洩らさなかつた。私は、口惜し紛れに途方もない、一種の自惚れを持つたのである。
「漁師の弟子や、畑の番人になるよりは、面白からう。」
 そこまで私は、生真面目に思ひ及んだ時、急に馬鹿々々しくなつて、何処まで自分の心は不真面目なんだらう――そんな気がして、テレた笑ひを浮べ、思はず熱い手の平でポンと景気好く額を叩いた。
 藤村は、未だ眠つてゐた。そして彼は、うつかり此方が聞き返したくなる程の、ウワ言を呟いだ。――もう[#横組み]“Hurrah!”[#横組み終わり]とは聞えなかつた、通俗的な寝言の形容詞通り、ムニヤ/\/\であつた。

[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]

「おい、もう好い加減に起きないか! 好い天気だよ、今朝は!」
 斯う云つた藤村の晴々しい声で私は、突然夢を破られた。――なるほど、飴色の陽《ひかり》が隈なく満ち溢れてゐた。開け放された窓から射し込んだ光りが、一杯私の顔にまであたつてゐた。――道理で、昏々と眠つてゐた私は、月から滾《こぼ》れ落ちる冷い滴が、乾いた喉をうるほすのに足りないで、水に浮んだ魚の姿で夢中になつてパクパクと滴を貪つてゐた。酒を飲んで寝るので大概私は、何かしら水に関する夢を見るのが常だつたが、この昼間の月の夢は、その滴が、折角|稀《たま》に落ちて来るやつを待ち構へて口に享《う》けて見ると、それは水ではなくて熱い酒なので情なかつた、さう思へばあの月は、色も怪しい……。
「あれは君、月ぢやないんだよ、俺が斯うして投げてゐるグラスぢやないか、ホラ御覧、これさ! 馬鹿だな、月だなんて……」
 藤村見たいな男が、斯う云つた。見ると、その手の平には、ありふれたシャンパン・グラスがのつてゐた。
「なアんだ! 道理で……」
「もう一遍投げて見るぜ、今度はうまく飲んで見ろよ。」
「だが酒ぢや御免だぜ、グラスは好いがさつきのあれは、中味は君、オデン屋の酒のやうに生々しく熱かつたぜ。」
「グラスを月と見紛ふ奴には、それで沢山……」
 ……「おや、やつぱり月ぢやないか、君の方が嘘
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