て行つた。トンネルのほの暗さが私の心を救つた。彼女の靴の音と、私の重さうに引ずる下駄の音が、急に冴えた。――さつき彼女が、歩きながらもう少しで私を風景写真の点景人物に取り入れようとした時、私は慌てゝ――これは自分が交際した日本の或る青年なんだが、彼等は夏になると、斯んな帽子をかむり、斯んな服装で、斯のやうな素足で平気で往来を歩いてゐるのだ――彼女が後年国へ帰つた時に誰かに向つてそんな説明をしないとも限らない、そして若しその相手が彼女の亭主であつたら、此方こそ惨めなものだ――そんな邪推を回《めぐ》らせて、
「御免だよ、うつかりお前なんかに写真を撮られたひには、後で参考品にでもされるおそれがある。」などゝ云つて、巧に姿をかはし的をはづして、彼女に人物の無い風景写真を撮らせたのであるが、私は夏中それ以外の姿をしたことがない経木の帽子をかむり、ツンツルテンの浴衣を着て、腰には今にも輪のまゝにすつぽりとずり落ちさうな太い黒色のメリンスの兵児帯を憎態《にくてい》に巻きつけ、加《おま》けに棒のやうに貧弱な脚の先きには、武骨な庭下駄を突ツかけてゐたのである。――薄暗いトンネルの中に、彼女の靴の音と、重さうに引ずる私の下駄の音だけが、冴えた。
トンネルを出ると同時に、潮見崎の――と云はうか、環魚洞の――と云はうか、吾々は切られた山の中腹に出て、右の欄干に支へられて、脚下の断崖に眼を落すべく余儀ない環魚洞の出口なのである。
こゝで、このエピソードの冒頭に返る。
[#横組み]“Hurrah!”[#横組み終わり]と、彼女は叫んだのである。この時彼女が、思はず私の手を握つたといふことは、さつきは述べなかつたが、その彼女の感投詞で私が、甘い切なさを感じた時、(なるほど、云ふんだね、そんな感投詞を、とは思ひながらも――)彼女は、その冷い手で私の熱い手を握つたのである。
あゝ! 私は、それが今だに忘れられないのである。景色ではない時に、そんな機会が与へられなかつたことが永久に残念であり、そして私は、あの時の彼女と、あの風景とが、私にとつてたつたひとつの怖ろしい、楽しい夢なのである――と決めなければならないのが悲しい。
だが、手の平の温い人は、心はその反対である、とかといふことを多くの女は云ふ――といふ話を誰かゝら私は聞いたことがあるが、私の手は何時でも温いのである。そんな迷信を信じよう、私
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