である。――彼女が、さう叫んだ時私は、「なるほど――」と、彼女に微笑を感じたことを思ひ出した。――如何程物凄い絶景に出遇はうとも私には、とてもそんなに快活な声はあげられない。
[#横組み]“Hurrah!”[#横組み終わり]
「…………」
私も、脚を震はせて石欄に凭り、脚下の怒濤を見降ろしたのであるが――なるほどね、そんな言葉は、初歩英文法の Iterjection の項にだけ引かれる非実際的な模範語かとばかり思つてゐたんだが……なるほどね、云ふんだね、こんな場合に――Hurrah ……。
異人種との交際に慣れない私は、変に感心したのである。そしてもう可成り打ち溶けてゐる筈の彼女に、今更のやうに新しく、まんまと研究資料にしてやつたほどの白々しさを感じたのである。
と、だけなら何の今頃思ひ出しても胸を塞がれる思ひもないんだが、同時にこの冷い語学研究生は、絶景に接して放たれた彼女の清らかな亢奮の詞《ことば》に、甘く胸を塞がれる肉感を覚えたのである、そしてたゞでさへ欄干から波を見降ろしてゐる私の五体は、硝子管に化してゐたのが、危く怖ろしい夢に酔はされたのである。――だから私は、今だにあそこの風景を想像したゞけでも眼が眩むのである。二年も前の話なんだが。
[#横組み]“Hurrah! Hurrah!”[#横組み終わり]
私は、岬を望みながら秘かに故意《わざ》とらしくそんな声を繰り返して、胸の熱くなる思ひに打たれた、風景を消して、眼の前に彼女だけを思ひ描いて――。余程の無理をしないと彼女だけ[#「だけ」に傍点]は思ひ描けなかつた、渺たる私たちを環魚洞の風景が執拗に抱きたがつた。
藤村は、微な鼾をたてゝ眠つてゐる。
他人の寝顔を覗くなどゝは何といふ非礼な話だらう――私は、自分をそんな風に叱つた。
……(彼は、自分が近頃失恋をした相手の人の話などは殆ど聞さないが、間が濃密であればあつた程他人になど話す興味もあるまい。その反対の間であつた私は、稍ともすれば心境を誇張して、失恋の域にも達してゐない程のことを悲し気に吹聴する卑しい癖を持つてゐる。彼こそ斯うして眠りながら失うた恋の楽しい夢路を辿つてゐるに相違ない――夢を醒まさないやうに努めよう。)
いつの間にか雨の密度が増したらしく、岬のあたりは一抹の滲みを引いて模糊としてゐた。――だが、私が二年程前、彼女とあそこまで初
前へ
次へ
全17ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング