けないよ。」
「さう/\、フロラで思ひ出したけれど五六年も前のクリスマスにフロラから貰つたハンドオルガンが、引つ越しの時古本の戸棚にあつたのであたしそつと持つて来たのよ。だつて、何んな原始生活だつて、一つ位ひの楽器がなかつたらクサるだらうと心配して……。でね、この間蛇腹にあいてゐる穴を一日掛りでつくろつて見たら、相当弾けないこともないわよ。其処のテントにあるわよ。」
「ぢや俺が持出して来よう。」
蜜柑畑の近くに私達は一張のテントを掛けて置いて、今度の村の区切りも何もない住家の別間に使つたりしてゐたのである。
「お前弾いて呉れ。」
妻は近頃Hに依つて覚へた「伊達男」と「誰かゞ私を待つてゐる」などゝいふ甘い甘い哀調を含んだ小唄を交互に繰り返して私の機嫌をとつた。街の市場から帰つて来る空の野菜車や野良帰りの老若達が、街道から此方を見あげて帽子を振つたりした。思はず立止つて稍暫し妙なる音楽に聴き惚れて行く者もあつた。中には、此方が一息衝くと、「恋に焦れて悶ふるやうな……」などゝひやかしながら行き過ぎて行く者もあつた。また誰かゞ私を待つてゐる、早く帰つて誰かと一処に踊るんだ、誰かの名前を知つ
前へ
次へ
全38ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング