ないや、例に依つて合唱の一節だけを、アウエルバツハの古めかしいワン・スタンザを借用して、諸君順番に勝手気儘に歌ふと仕様ぢやないか。」
「賛成/\、そこで水車小屋の太将、お前から始めてくれい!」
 私達が住んでゐる村の酒場であるが、常連の森に住む炭焼家、村役場にゐる執達吏、村長のノラ息子、牧場の牛飼ひ、麦畑作りの小作人、舟を持たない漁業家、小説家である私、私と同じ家に起居して、同じく文学研究に没頭してゐるHとRといふ二人の大学生、隣り村の元村長達の毎夜/\の大騒ぎは恰もアウエルバツハの不良青年の面影に似てゐる! といふところから私達は、いつの間にかゝら此の居酒屋を、その名で称び、何か勝手気儘な歌をうたつては、合間/\に一同が声をそろへて、あの合唱である「恋に焦れて悶ふるやうに――」と高唱するのが慣ひになつてゐた。
「よしツ!」
 と水車小屋の大将は、フラ/\と立ちあがると足拍子をとりながら、斯んなやうな意味の歌をうたつた。――俺にだつて云ふに云はれぬ悲しみも苦しみもあるのだ、それを知りもしないで昨夜も昨夜、一杯機嫌で此処から帰つて行くと、吾家《うち》の婆アは大不機嫌で閉め出しを喰はせた、
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