ぐに違ひないと同様に、反対に気恥しくつて聴いてはゐられない、止めて呉れ! と云つて横を向く習慣に陥つてゐた。
 彼等は風のやうな拍手を浴せ、寂《せき》として私の発声を待つた。――なるほど、慣れたらこれに限るだらう――不図私は、そう思つた。生来私は会話下手で、誰と話すにも第一に相手ばかりを遠慮して思ふことも易々とは云へない質《たち》で憂鬱を覚へるが、これに慣れたら、中空の一方を見詰めて悠々と独白すれば済むわけだから、憚りなしに己れの所存を伝へられ、且つ愉快に違ひなからう――私は堂々と脚をふまへ、ガウンの裾をぴんと肩にはねあげた。
「テテツクスの話は――遠くエヂプト文明の啓蒙期に遡り、Khufu と称ばれる王様の、華麗絢爛の時代にその源を発します。」
 私は重々しい韻律を含めて、悠《ゆる》やかに両腕を拡げながら不思議な声色で唸り出した。――「Khufu 王様は五つの遊星を発見し、科学、天文、測量術を完成し、更にまた神秘この上なき星占術を発明したほどの、比類稀なる大天文学者であることは知らるる通りですが、この王様ですらテテツクスの伝説を弥《いや》が上にも尊敬して、夕べの礼拝堂の神体を黄金の蝉をもつて象り、星占の塔に昇る前の一刻を、この像の脚下にひれ伏して彼女の御機嫌を窺つたと云はれます。」
 私はそこで、水を呑まずには居られなかつた。私の発声を待ち遠しがつて、並居る聴衆は合唱の声を挙げた。
「ちぎれ/\に雲まよふ、夕べの空に星ひとつ、光りはいまだ浅けれど、想ひ深しや空の海、あゝカルデイアの牧人が、汝《なれ》を見しより四千年、光りは永久に若くして、世はかくまでに老ひしかな! ――おゝ、この歌の時代の話だな、世界にこれ以上の古さはないといふ大昔のことだな。」
「さうだ、そんな大昔から今代に至つてまでも今尚ほ信じられてゐる不思議な伝説です。蝉は、オリンパスのアポロとミユーズが地上の人間の行状を見聞さすべくつかはした吾々の監視者であるといふのです。彼女は吾々の生活を細大洩らさず見物してオリムパスの山へ報告します。吾々が聴く彼女の歌は彼女がアポロに告げる準備の歌ださうです。だから王様をはぢめ、道徳家も、盗人も、無頼漢も、カルデヤの牧人が見出した夕べの星が輝き初《そ》むる時刻となると一勢に地にひれ伏して、彼女とミユーズの対面の光景、彼女に依つて告げられるところの己れの姿を想像して、戦き、怖れ、感謝して、永遠の幸福を祈りました。……この迷信がギリシヤに渡ると、ホーマーもソクラテスもプラトンも、アナクレオンも、そしてアリストテレイスも、夫々の立場に従つて或ひはこれを詩にうたひ、その神性を講義して合掌し、或ひは実有科学論に依つて証明し――といふ風に様々な人々に依つて歌はれ、研究され、崇拝せられて、終ひには悲劇の素材とされて、運命論者の独白となり、ある喜劇の中では、星占博士と物理博士とがテテツクス論で火花を散らし五十年の間争ひ続けた儘、最後を遂げることになつたり、また幻の如く忽ち来ては忽ち去つて行くテテツクスよ、露より他に吸はぬといふならば、私はお前に何を与へたら好からうか、決して私は拒みはせぬからお前の欲しいものは何でも彼でも私の胸の倉から自由に持つて行つてお呉れよ、この世の上で相見る間は何んなにか短かゝらうとも、お前の歌はフエニキアの海賊が発見した東天の星と同じく決して私の眼の先からは消えはせぬ、そして私はお前がアポロに告げる私の歌が、幸ひに富むことを祈つて止まぬ――ところ/″\に斯んな風な極めて感傷的な合唱章をさしはさんだ百スタンザから成るほどの長い/\俗歌が一度びアテナイの一|哀歌詩人《エレヂスト》に依つて歌はれると、見る間に怖ろしい伝波の翼に乗つて、北はテツサリイを越へて大陸へ、またはイオニアの海を渡つてローマ帝国へ、黒海を胯いで東方諸国へ――忽ちのうちに津々浦々までもひろまりました。
 遠く Khufu 王の御代に源を発し、五千年の歳月の空を飛んで或夜私は、テテツクスの夢を見ました。オリムパスの山を目がけて、まつしぐらに飛んでゐる一尾の蝉であります。耳を澄ますと彼女の翅ばたきの音が言葉になつて聞えるのです。
(若しもあの男が自分でつくつた歌を自分で歌ふことが出来たならば、あの男が犯してゐる凡ゆる罪を許してやるのだがな……)
 諸君一体私は何んな罪を犯してゐるのでせう、……」
 この辺まで歌つて来ると私の目の前は、にわかにぐる/\と回転し出して危く昏倒しさうになりました。――「で、私のあの折々の憂ひを含んだ表情は……自ら犯したと云はるゝが知る由もない罪を探つてゐるのではない……間もなく訪れるであらう、テテツクスの季節が案ぜられるのだ……」
 私の声色は激流に乗り出して、次第に当り前の演説口調になりかゝつた。すると連中は涌き出して、「恋に焦れて
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