――」を合唱して私を抹殺した。その時誰かゞ立ちあがつて私を指差し、
「君は、さつきからあのエヂプトの大王の名を、フツフ、フツフ! と称んでゐたがそいつは大きな間違ひだよ。そんな笑ひ声見たいな王様の名前があつて堪るものか。」
「ギゼーのピラミツドのうちで現在一番大きいのはフツフ王のそれだ。フツフ王の彰徳記念碑《オベリスク》は五千年の風雨に曝されても、今尚厳としてエヂプトの空にそびへてゐるのを知らないか、酒樽奴!」
 と私は向ツ肚を立てゝ奴鳴つた。「Khufu のKはサイレントになるにきまつてゐらア!」
「間抜野郎!」
 と相手も鋭く怒鳴つた。この男は、私がさつきから時々調子を脱《はづ》して、思はず演説口調に走つてしまふ度に、堪らない/\! と一番鋭く疳癪の舌を鳴してゐた無頼漢であつた。私にしても、さつきからその男の最も露骨な舌打ちに、更に疳癪を感じてゐたところだつたのだ。「Kがサイレントだつて! 笑はせやがらア。中学校の歴史の教科書でも見直して来やがれ、クツフと発音するにきまつてゐるよ。」
「手前の中学時代の教科書に何んなフリ仮名がついてゐたかは知らないが、俺の斯んなにも厚い、大きな――」と私は手真似して「コリンスといふヒストリアン・デイクシヨナリイには、ちやあんとKがサイレントになつてゐるんだア。」とほき出すと一処に物凄い憎々《にく/\》顔をニユツと相手の鼻先に突き出した。
「何でえ!」
 と相手が殺気立つて拳固を突き出したから私も、
「何でえ!」
 と応酬して拳固を突き出した。

     三

「当分の間僕は酒場通ひは止めることにしたよ。」
「でも、家にゐても何にも遊び道具がなくなつてしまつてお気の毒だわね。あなたの大事なホルン(ラツパ)までもとられてしまつて!」
「大事な――なんてことはないさ。何も要りはしない。何にも無ければ無いで、斯うして俺は何時までゞもお前と話をしてゐる、それだけで万上の満足だ……それからそれへ限りもない夢が綺麗に伸びて行く……その夢を歌にしてお前に聞かせてやることが出来るなら何んなに悦ばしいことだらう――と、不足と云へばそれ位ひのものさ。」
「まア、お上手なお口だこと!」
 妻は娘のやうに顔を赤くして、信頼する者の胸に凭り掛つた。私はあの晩の激昂の疲労で三日の間寝室に閉ぢ籠つた後、初めて土を踏み、裏の蜜柑畑の丘に来て、スロウプの草の上に坐つたのである。そして一枚のガウンを二人の肩に掛け、四方山の話を交しながら長閑な村の景色を眺めてゐるうちに、いつか向方の森の上に星が現れ、村里には点々と灯火が光り出したけれど、未だ立ちあがることも忘れてゐた。――(何うしても私は彼の名前を堂忘れしてしまつて思ひ出せないので、皆なが云つてゐる通りに此処にも彼の代名詞を無頼漢と誌したが――彼は、あの翌朝私が酒場に脱ぎ棄てゝ来たといふガウンを、恭々しく届けて来たりして、
「帰つて字引を験べたところ、貴方の仰言る通り案の条Kはサイレントでしたよ。」
「やあ、さうなると何うも返つて私は失礼しちやつたな、ほんとうを云ふと私だつてあの時、あれ程の確信があつたわけぢやなかつたんですが、つい、その言葉の勢ひで……」
「私もその通りでしたよ。こいつは何うも一杯飲み損つたわい。喧嘩を売つて、他人に酒を買はせることを業《なりはい》にしてゐる村一番の無頼漢も、これぢや何うも商買あがつたり……」
「私も歌が自由に歌へるまでは、アウエルバツハには当分行くまいかと思つてゐる。」
 斯んなやうなことを例の特別の声色で、歌ふやうに取り交して別れた。)
「僕は村長に進呈するつもりで置いて来たのだつたが……」
「何うしてそんなつまらぬ真似をしたの、これがなくなつたら貴方は風邪を引くにきまつてゐるぢやないの。」
「欲しいのだが、呉れろ! と云ふのは厭だ、君が若し棄てたら僕が拾はうと思つてゐるんだ――そんなことを村長が時々云ふことを思ひ出したので――」
「妙な村長ね。」
「僕が風邪を引かないためには、この代りにマイワイをやらうといふのさ。」
「マイワイつて何?」
「大漁の時に漁師に配られる――それ、あの裾に色彩りの綺麗な七福神の踊りなどが染め出してある丹前風の上着さ、例のハツピーコートさ。」
「去年のクリスマスにミセス・フロラに贈つた、あれ! 仮装舞踏会で注目の的になつたと喜んで、それを着た写真を寄したあれでせう、あれなら、あたしも欲しいな。あたしは仮装ぢやなくつて実用に使ふわよ。村なら平気だわね。それにどうせ今年だつて春の外套なんて買へないだらうからな。」
 妻と私は、私のガウンのことから斯んな話に移つたこともあつた。
「夕暮時になると、未だ仲々薄ら寒いわね。」
「おゝ、可愛想に――さあ/\、もつと肩をぴつたりと此方に寄せて、すつかりこれにくるまらなければい
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