なつて懸つてゐたアメリカ・インヂアンのガウンと一対の錆びたフエンシング・スオウルドだけが私の所持品だつたのである。競売の日にこれらの品物だけは買手がなくて、自然私に残されたのであつた。私は他に着るものがなかつたので寄ン所なくこればかりを羽おつてゐたのだ――そして私は、水車小屋の主が何時でも私に借して呉れるドリアンといふ牝馬に、「ロシナンテ」とか「ブセハラス」とかいふ異名をつけて、或時は、ラマンチアの紳士気取りでロシナンテを駆り出し、森の奥へ走つて闘剣の練習をしたり、また或時は街にある叔父さんの家を襲つて物凄い掠奪を縦《ほしいまゝ》にし、村に引きあげる時には、アルベラの戦ひから凱旋する大王アレキサンドルの心を心としてブセハラスの背中で、新たに建てるべき己れの王国について考慮を廻らせたりしてゐた。――町にゐる私の憐れな年寄つた母親は、老眼に涙を湛へて、私のたつたひとりの倅は倒々気狂ひになつてしまつた、案ぜられる――と日夕悲しみの祈りをあげてゐるといふ話であつた。そんなこんな、様々な事情を知つてゐるので執達吏は、「あの合唱の場合に君の歌ふ姿は就中息苦し気だ。」とか、「やぶれかぶれで、そんな身装《みなり》をして――平気さうな顔をしてゐるんだらう?」などと余計な質問をするのであつた。
 違ふ、私には生来の一つの習癖があるのだ。私は何時の時でも朝な夕な不思議に勇壮な運動を試みずには居られない習癖があるのだつた。私は、どんな立場で何処に住んでも、必ず朝《あした》は竜巻になつて襲ふて来る怖ろしい煙に似た悲しみに取り巻かれ、夕べは得体の知れぬ火に似た情熱に追はれて、何うにも凝つとしてゐられなくなる――私は、この悲しみと奮戦し、この情熱と組み打ちをする思ひで、機械体操を試みる、オートバイで駆け廻る、大酒を喰ふ、夫婦喧嘩をする、美女を追ひ廻す、水泳を行ふ――そして健やかな汗をしぼると、忽ち爽やかな楽天家に立ち戻ることが出来るのだ。村に来て私は寧ろ稀大な生甲斐を覚へてゐる位ひなのだ。自働自転車《オートバイ》の代りには精悍なロシナンテが控へてゐる。機械体操の代りには闘剣が役立つてゐる。あの土人の着物とこの一対の闘剣とが最も私のために役立つことになつた先代の最後の遺物かと思ふと私は異様な昂奮を覚へ、その上私に凡そ嘗て感じたこともない祖先崇拝の念が浮んで来るかのやうな力強さに打たれたりした。
 この村には、綺麗な丘があり、夢のやうに深々とした狩に適した森があり、釣を誘ふさゝやかな小川が流れ、この賑やかな酒場があつて、何の私に不足があるものぞ! であつた。森の獲物も海の獲物もない荒天続きの上句食に窮すれば、私は何んな責も覚ゆることなく忽ち飛鳥の如き掠奪者とこの身を変へることが出来る。そして私は馬を飛ばせて崖道に添ふて村の棲家に引きあげて来る時などは、憧れの中世紀に突如この身を見出したかのやうな夢心地に走り、面白さのあまりに恍惚とする位ひであつた。
「たゞ、この私の、時折諸君の前にも示してしまふ――この憂ひを含んだ表情は……」
 と私が執達吏に弁解しかけると、番が廻つてゐる私が珍らしくも調子に乗つて歌をうたひ出したのか! と早合点して、一勢に腰掛の樽を叩いて拍子をとり、声をそろへて、
「恋に焦れて悶ふるやうな――恋に焦れて悶ふるやうな――」
 と合唱し、
「やあ、聴かう/\、町から村へ流れ込んで来た俺達の親愛なる吟遊詩人《ジヤグラア》の旅物語を聴かうぢやないか。俺達の腹がルウテル博士のそれのやうに、ぽんぽこぽんにふくれあがるまで歌つて歌つて歌いぬいて呉れい。」
 と八方から所望追求の矢を浴せた。
(親しい者同志の間に於ては、そこに特別な言葉が生じたり特異な習慣が出来たりする現象を吾々は屡々見うけるが、こゝの酒場の常連の間では、何んな会話を取り交す場合にも彼等は、相手の顔を直接眺めることなしに、舞台の上に立つてゐる唱歌者の通りに、いち/\立ちあがつて、ジエスチユアと一処に、会話を歌で交すのが習慣になつてゐた。私だけにはそれが何うしても未だ真似られなかつたのであるが、今が今私は、あの凱旋の光景を思ひ出して有頂天になつてゐたために、「この私の――憂ひを含んだ表情は――」と説明しようとすると、思はず翼でもあるものゝやうにスラスラと爪先立つて酒場の真中に進み出ると、彼等が演《や》る通りな格恰で節をつけて発声したのであつたから、彼等が早合点してお世辞のために悦び迎へたのは当然なのである。)

     二

「あのテテツクスの愚かな伝説は――」と私は歌ふが如く語り出した。調子をつけて語りさへすれば、彼等はあたり前の顔をして聴くのである。真面目に普段の会話法で語ると彼等は、恰も日常の吾々が若し、相手が物を言ふのにいろ/\節をつけて歌つたりすれば、歯を浮かせ、ゾツとして耳を塞
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