二人の闘剣者は、戦ひに破れて息も絶え/″\になつて故郷に立ち帰つた兵士のやうに二人の可弱い女に助けられながらよたよたと田甫道を引きあげてゐた。
「御覧なさいよ、綺麗ぢやありませんか、麦畑の上にあんなに蛍が飛んでゐるわ!」
「ちよつと振り返つて見ないこと、満月だわ、山の真上に懸つてゐる! もう大分夜も更けてゐることだらうが、何だかさつぱり寂しくはないね。」
「振り返るのも苦しいの? ぢや、この眼の前の五人の並んだ影を見て御覧な、随分長い影だわね、そら/\脚がスイ/\と斯んなに長い、誰かちよいと手を挙げて御覧よ、河向ふまでとゞきさうぢやないの!」
「HさんRさん、ちよつと、その剣を上に挙げて御覧なさいよ、何んなに長く、その影が伸びて行つて何処までとゞくか験して御覧なさいよ。」
 二人の婦人は、それからそれへ慰めの、いとも懇ろな言葉をおくるのであつたが、傷ついた兵士等は深く首垂れたまゝ、たゞ点頭くばかりであつた。
「もう鎮守様の近くよ、彼処まで行くと、居酒屋《うち》の灯が見へるわよ。彼処まで行つて、若し三人が歩けなくなれば、彼処からならあたしがお父さん! と大きな声で呼びさへすれば、父さんが馬車を持つて迎へに来て呉れるから大丈夫ですわ。」
「妙さん、重いでせう。若し、もう苦しかつたら三人を此処に置いといて、走つて行つて、お酒を持つて来て飲ませてやりませうよ。さうすれば三人共直ぐに勢ひがつくわ。」
「妾《あたし》は平気ですわ、それより奥さんこそ……」
「あたしだつて平気よ。もつと速く歩いたつて大丈夫よ、うちの人だつて、Hさんだつて、とても軽いんですもの……」
「Rさんも軽いわよ、御覧なさい、大方妾におぶさつてゐるぢやありませんか。」
「父さん、大丈夫起きてゐる?」
「だつて、父さんだけが今晩も甚太郎さんの相手なのよ。甚太郎さんの義太夫会がいよ/\眼近かに迫つて、今夜から、妾の家で彼の人は、その練習なんだけれど……」
「まあ!」
「ほんとうなら、さつきだつて、これ位ひのことで村の人だつてあんなに騒いで見物になんて来るわけはないんですけれど、まご/\してゐると甚太郎さんにつかまるので、それで此方の騒ぎを好いことにしてドツとおし寄せて来たんですよ。」
「ぢや早く帰つてやらなければ、父さんにも気の毒だわね。」
「えゝ――だから、妾、仁王門の処まで行きついたら、父さんを呼ぶわよ。――憎らしいわ、妾、あの下手の横好きの――仁王眼玉の甚太郎!」
「仁王門の前で、呼ぶのは愉快だわね、あたしも一処に声を張り挙げるわ。」
「昼間妾が仁王門の前を通つたら、あの甚太郎が自分のおさらひの会の立看板か何かを仰山に担いで来て、門の傍らに立てゝゐましたよ。憎らしいから、破いてやりませうか。」
「えゝ、破いてやりませう。」
「馬鹿な真似をするなよ。」
 と私は漸く呟いだ。「俺は悦んで聴きに行く。今夜も、これから聴かせて貰ふ、酔つ払ひ共の悪騒ぎのない晩に、沁々と甚太郎の喉を聴いて……得難い思ひを囚へてやる。」
「五人の者が斯んなに一列に腕を組んで――」
 また私に奇体な亢奮でもされては困るとでも思つたらしく、娘だか妻だか私には解らなかつたが慌てゝ言葉を改めた。――「斯うして歩いてゐると、道が斯んなに青白く平らで、まるで、腕を組んで氷滑りでもしてゐる見たいぢやありませんか。ホツホツホ……面白い/\! さあ、ラ・マンチア紳士も、ソフオクレスのお弟子さんも、そしてプラトン学校の落第生も、元気をつけて一と思ひに仁王門の前まで、氷滑りをして御覧なさいよ。」
「さうだ/\、皆なで一処に歌でも歌ひながら――氷滑りでいけなかつたら、ナンシー・リーで波の上としませう、それともカルデアの牧人で、雲の上でも関《かま》はないな。――こんなにふわふわとした月の光りが一杯の明るい白い道なら、波でも雲でも自由に想像出来るぢやないの! 雲の上を踏んで、飛んで行かう、飛んで行かう。」
 などゝせき立てたが応じられる男は一人もなかつた。でも、その言葉に伴れられて怪し気な眼を視開いて見ると、行手の月光を浴びた白い道も、波のやうな麦畑も、薄黒い鎮守の森も――ただ漠々たる三態の雲に見へ、私達はペガウサスに打ち胯がり、トアパイロンの虚空を衝いて、一路オリムパスのアポロの許へ突進してゐる夢心地に襲はれた。
「さう/\、雲の上といふギリシヤ語をあなたは此頃覚へたと云つてゐましたね。これで俺は五つのギリシヤ単語を覚へた――と。テテツクス・蝉、コモイダス・喜劇役者、カタ・コマス、村から村へ……か、コマゼイン――飲んで騒ぐ……でしたね、それから雲の上――パアパア……何でしたかしら?」
「五つばかりぢやない、もう三百以上も覚へてゐる。」
「ほう、いつの間にか――偉いわね、その勢ひだつたら、今年一年もかゝつたら原文で本が読める
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