せんが、歌をつくりたいといふ念願は、いや念願といふよりも、時に応じて影のやうに私の脳裏をかすめる悲しみや悦び、または自分がこの世で出遇つたところの悲しい事件や滑稽な苦悶やその他一切のことごとを叙するにあたつて、歌で云ひ開くことが出来たならば何んなにか悔なく、またその日/\を面白く暮せることだらう――と思ふ心の切なる煙りが胸の底に蟠つてゐるのでございます。で私は酒に酔ふと稍ともすれば声を挙げて、大昔の酒神《みき》頌歌者や哀歌詩人に依つて詠まれた愉快な歌を口にして、余も亦彼等の如く一切の生命を酒と竪琴楽に托して、夢も現もなべて明るく歌ひ暮したいものであるが――などゝいふ嘆息を洩らすのであります。そして私は村の居酒屋の卓子《テーブル》に凭つて毎夜/\、哲学者と間違へられたことがあつたのも当然な重く据《すわ》つた眼つきをして、一方を見れば一方ばかりを何時までも凝つと眺めてゐるといふ、あの蛙のやうな習慣さへついてしまつたのでありました。
「そんなにそのランプが気に入つたのならさし上げますわ、お帰りにあたしがお供して――」と酒場の娘が心配したこともあります。お帰りの時は何時も操り人形のやうな格構になつてしまふから到底壊れやすいランプなどをブラさげて歩くわけにはゆかないからです。――「持つて行きますわ、どうせ提灯をつけてお送りするんですもの。」
 私は勿論ランプが気に入つて眺めてゐたわけではないのですが、断はるのも失礼だらうと気づいて、にわかに気分を変へ、
「僕の大好きなルルさん――」
 と云つて娘の手を執り、
「有りがたう。このランプが僕の部屋に灯《とも》つたら何んなにか嬉しいことだらう。」と答へてしまひました。で娘も悦んで早速そのランプを私の部屋の天井に吊して呉れ、
「このランプが点いてゐる時は、あなたがあなたのお部屋で、あたしのことを考へてゐて下さる時――といふことのしるしとして、此処から、あなたに戴いた眼鏡で眺め――あたしは、あなたのためにお祈りすることにしますわ。」
 と云ひました。すると、その時私は、斯んな素晴らしい綺麗な言葉を私のために決して婦人から聞いた験《ためし》のない私は、日頃物語のみで読み魂をあげて切望してゐるお姫様の前に心臓をさゝげる幸福な騎士になつてしまつた私は、嬉しさのあまりにわかに胸がふくらみ唇を激しく震はせながら、
「おゝ、このランプは、この先、凡ての夜を、凡ての夜を徹して、この幸福な部屋に点り続けることであらう。」と苦しさうに唸りました。
 が、次の晩になると私は、私自身を居酒屋の卓子《テーブル》に妻と一処に見出し、そして丘の中腹にある私の部屋を振り返ると、何んなに木蔭をすかして見ても、そこは真ツ暗で――私は妻が、蓄音機の音楽に合せて水車小屋の若者と手に手をとつて踊り回つてゐる光景を、ぼんやり眺め続けてゐます。
 次の晩は、二人の大学生が、ギリシヤの喜劇役者の語源に就いて火花を散らしてゐるのを聞いてゐます。Aは KOMOIDOS なる喜劇役者といふ言葉は KATA−KOMAS なる即ち「村から村へ流れ渡る」の意から転じて KOMOIDOS といふ言葉が出来たのだ――と主張し、Bは「飲んでは騒ぎ、騒いでは飲む」の意の KOMAZEIN が転化して、あの言葉が生じたのだ――と論及し互ひに一歩も譲り合ひません。あはや、つかみ合ひが生じさうになりさうな勢ひです。――私は、二人の激論家の表情を彫刻家がモデルを眺めてゞもゐるかのやうに見てゐます。
「海辺へ出て決闘をしよう。」
「その気の毒な言葉が云ひ出されるのを俺は待つてゐた。よしツ――。ルルさん、水を一杯持つて来て呉れ――」
 二人の大学生は同時に立ちあがつて、鼻と鼻とを突き合せ眼眦《まなじり》を裂きました。そして二人は同時に私を指差し、「あなたの書斎の壁に懸つてゐる二つのフエンシング・スオウルドが僕等の主張に黒白をつけて呉れるでせう。命をかけて、僕達はこれを云ひ張る――さあ、あなたも一処に行つて……」
 と命令しました。
 この始終を傍見してゐた村長は、いよ/\見るに見兼ねて私に云ふのでした。
「マキノ君、この審きは君自身がつけるべきが当然ぢやなからうかね。あの二人は君の友達であるばかりでなく、そも/\彼等に酒を強ひ、ギリシヤの悲劇、喜劇の出生論(怪し気な――)を説いて、彼等の思想を迷はしたのは君ぢやないか。それを君、この場合に当つて、決して君が君の意見を吐かないことは怖ろしい悪徳だよ。今更君がプラトンを主張するんなら何故君は始めから悲劇、喜劇の差別を否定した後に――詩人顔をしなかつたのだ?」
「村長、待つて下さい、僕は、その……」
 と私は弁明しようとするのですが、ガタガタと鳴る頤《あご》ばたきが起つて、どうしても言葉が出ないのです。尤も頤ばたきが起らなくても、
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