歌へる日まで
牧野信一

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)吾家《うち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|哀歌詩人《エレヂスト》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)歌へ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

     一

 蝉――テテツクス――ミユーズの下僕――アポロの使者――白昼の夢想家――地上に於ける諸々の人間の行状をオリムパスのアポロに報告するためにこの世につかはされた観光客――客の名前をテテツクスといふ――蝉。
「その愚かな伝説は――」
 さあ歌へ/\、今度はお前の番だ! と攻められるのであつたが、何故か私には歌へぬのだ――だが、私は凝ツとしてゐられないのだ――酒樽の上に立ちあがつて喋舌り出したのである。
「えゝ、もう沢山だわい。演説を聴くために俺達は酒を飲んでゐるんぢやない。」
「仕方がないや、例に依つて合唱の一節だけを、アウエルバツハの古めかしいワン・スタンザを借用して、諸君順番に勝手気儘に歌ふと仕様ぢやないか。」
「賛成/\、そこで水車小屋の太将、お前から始めてくれい!」
 私達が住んでゐる村の酒場であるが、常連の森に住む炭焼家、村役場にゐる執達吏、村長のノラ息子、牧場の牛飼ひ、麦畑作りの小作人、舟を持たない漁業家、小説家である私、私と同じ家に起居して、同じく文学研究に没頭してゐるHとRといふ二人の大学生、隣り村の元村長達の毎夜/\の大騒ぎは恰もアウエルバツハの不良青年の面影に似てゐる! といふところから私達は、いつの間にかゝら此の居酒屋を、その名で称び、何か勝手気儘な歌をうたつては、合間/\に一同が声をそろへて、あの合唱である「恋に焦れて悶ふるやうに――」と高唱するのが慣ひになつてゐた。
「よしツ!」
 と水車小屋の大将は、フラ/\と立ちあがると足拍子をとりながら、斯んなやうな意味の歌をうたつた。――俺にだつて云ふに云はれぬ悲しみも苦しみもあるのだ、それを知りもしないで昨夜も昨夜、一杯機嫌で此処から帰つて行くと、吾家《うち》の婆アは大不機嫌で閉め出しを喰はせた、
次へ
全19ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング