けないよ。」
「さう/\、フロラで思ひ出したけれど五六年も前のクリスマスにフロラから貰つたハンドオルガンが、引つ越しの時古本の戸棚にあつたのであたしそつと持つて来たのよ。だつて、何んな原始生活だつて、一つ位ひの楽器がなかつたらクサるだらうと心配して……。でね、この間蛇腹にあいてゐる穴を一日掛りでつくろつて見たら、相当弾けないこともないわよ。其処のテントにあるわよ。」
「ぢや俺が持出して来よう。」
蜜柑畑の近くに私達は一張のテントを掛けて置いて、今度の村の区切りも何もない住家の別間に使つたりしてゐたのである。
「お前弾いて呉れ。」
妻は近頃Hに依つて覚へた「伊達男」と「誰かゞ私を待つてゐる」などゝいふ甘い甘い哀調を含んだ小唄を交互に繰り返して私の機嫌をとつた。街の市場から帰つて来る空の野菜車や野良帰りの老若達が、街道から此方を見あげて帽子を振つたりした。思はず立止つて稍暫し妙なる音楽に聴き惚れて行く者もあつた。中には、此方が一息衝くと、「恋に焦れて悶ふるやうな……」などゝひやかしながら行き過ぎて行く者もあつた。また誰かゞ私を待つてゐる、早く帰つて誰かと一処に踊るんだ、誰かの名前を知つてゐるか――などゝ思はせ振りなことを歌ひながら鍬をかついでさつさと行き過ぎて行く若者もあつた。――白い道を転げて行く眠たげな轍の音が聞える。ぽか/\と鳴る駄馬の蹄の音が調子好い、水嵩を増してゐる向方の小川で回つてゐる水車の音も聞える。水車のしぶきが薄暗がりの中に、白く鮮やかに蝶々のやうに見へる。そして、それらの動くものゝ姿が刻々と低い霞みに溶け、恰も草原から草原へ移つて行く長いキヤラバンが村を見出して急いでゐるかのやうでその廻り灯籠の人物見たいな様々なシルエツトが手を振つたり鞭をあげたり、歓呼の声をあげたり、しながら灯が点きはぢめた村里をさして歩いて行くのであつた。馬車も行く、牛車も行く、牛乳車も行く、――と、その道を逆に進んで来る一頭の馬の姿を私は辛うじて認めた。――乗手は丘の上の私達の姿を認めると、
「大急ぎで降りて来て呉れ、一大事だ。H君とR君が、しやにむに決闘だと力んで河原へ出かける所だ。その介添は君でなければ務まらない。有無なく君は行かなければならないんだ。」と叫び、更に、もう疎らになつて参々伍々帰路を急いでゐる列に向つて「市場帰りの馬車を一台貸して呉れ!」などと騒いだ。
前へ
次へ
全19ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング