阿父さんは云つたことがあるわよ。」
「…………」
 今日は終ひに何んな言葉を用ひるかしら? さう思ふと自分は、彼女の賤しい微笑に誘惑を感じたが――が、堪えた。この堪えるといふことは、不気嫌な気色を示すのに依るより他はない、自分はもうこんなことで彼女と野蛮な口論に達するのにも飽きてゐた――妙なことになつたと思ひながら、妙に不気嫌な気色を示して彼女の言葉をさへぎつた。――でも自分は、矢つ張り思ひたくない妄想に走らせられた。自分の弱い性質を、あの途方もない、汚らはしい想ひに結びつけた。
 私は、首を振つて、好い加減に口笛を吹きながら、合間に、世才に通ずる楽天家らしい口吻で云つた。――「……勿論、もう独身《ひとり》ぢやないと思ふよ。此方にこそ知らせてはないが。」
「ヘンリーが死んでからは満足にお金が送れなくなつたのが間が悪くはない?」
「だからさ――。俺は、N――が屹度結婚してゐるだらうと思ふよ。……案外、大変に惨めな境遇に陥つてゐるかも知れないぞ。」
 私が、嘗て父に向つて、十いくつかになつて初めて父を見て以来、何だか妙で、倒頭、阿父さん! とは呼び掛けたことがないやうな不思議な父と子を見て
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