世的になつても好い筈なのに! などといふ気がして、始終うかうかしてゐる心を嗤つても、少しも悩みなどには出遇はなかつた。
(だが? 実際は、どちらの冷淡が、父を独り去らしめたのかな?)
 自分は、偉い疑問でも考へるやうに、そんな思ひに耽ることもあつた。そして自分は、自分もあまり好きでもなかつた眼の前の女の顔を、それとなく打ち眺めることがあつた。と、自分は、馬鹿な寒さを身うちに覚えた。
(俺は、独りで一ト月の旅行をするのも怖ろしい……吾々の長男はもう五才になつてゐる。――俺は、独りの旅をしたいといふ慾望が近頃非常に強いのだ。)
 一体自分には恋らしい経験はない、妻の前の或る女のことなどを思ひ出しても、一概に嫌な惧れを感じた、あれが続いたら何んなに幸福だつたらう! などといふ思ひ出は一つもなかつた。
「ともかく二十代なのね……」まだ妻は、意地悪るを続けてゐる。
「さうかしら――」
 ……だから自分は、今では先に自分のあのやうな痴想に惧れを抱いて、彼女に最後の言葉を放たせないやうに努めた。
「二人もあつたんだつて、子供が。だけどN――ひとりしか育たなかつたんだつて。一人で未だしも救かつたなんて
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