方を睨めてゐた。
祖母は、一人の息子を東京に住はせて永年独りでこの古い家に住んでゐた。孫は、私より他になかつた。私の母は、こゝの一人娘で近所に嫁いでゐた。母は、七才の時に父を亡したさうである。
私の胸には、無性に怖い戦きと、月夜と柿に関する理論的な疑ひとが、ちぐはぐにうずくまつてゐた。――私は、そんな想ひを払ふやうに、
「今夜、母さんが蓄音機を持つて来ると云つてゐたよ。」と云つた。
「私は異人臭いものは真ツ平だ。聞きたくないと云つてゐるのにこの間うちからお静が――」
「英語だからさつぱり解らないよ。」などと私は、はつきり阿る心を承知しながら遠回しに祖母の歓心を買はずには居られなかつた。
母は、提灯を吹き消して、
「蓄音機は、あとから国さんが持つて来る。」と云つた。祖母の家の唖の下男が、全部の道具を一まとめに容れられるやうに日本の建具屋に工夫させて拵らへた白木の箱を、軽いけれど重い物を持つやうに物々しく抱へて来た。その中には六本のレコードと、小さなメガホンと、仕掛けがむき出しになつてゐる小型の機械などが別々に板で仕切られて容れこしになつてゐた。
母は、綿にくるんである筒型のレコードを茶筒のやうなボール箱から取り出して、丁寧に開いて、いちいち前説明をしながら順次に鳴らした。
それでも祖母は、ランプの下で不思議さうに聞いてゐた。
母は、夫がこれと一処に附けて寄したレコードの説明書きを、今度は稍々開き直つて読みあげた。
「第六号。」と母は、内側に[#横組み]“No 6”[#横組み終わり]の貼り紙がしてある円筒を片手に取りあげながら「第六号――是ハ余等ノ学友ガ卒業記念ノタメニ自ラ作成セル歌詞ニ自ラ作曲シタルモノヲぴあのノ伴奏ニ依ツテ合唱セルヲ吹キ込ミタルモノナリ 謝恩唱歌ノ類ヒナリ 意ハ略スガ音律ニ依ツテ聞カバ己ズト通ズルモノアラン 余モ亦唱歌者ノ一員ナリ」と読みあげた。母は、もう吾家で読み慣れてゐたからどの説明書きも暗誦してゐたが、これは又事新し気に朗読した。そして私も、それ程聞き慣れてゐたので、母の様子がわざとらしくをかしく見えた。――私の父が前の年にアメリカ・フエーヤーヘブンの或る田舎の中学を卒業した時の記念品だつた。父は三十歳であつた。そしてこの年から都に出てカレツヂに入学したと報へて寄した。
短い合唱歌である。
「どれが、父さんの声だらう?」
私達は、吾家でも幾度も斯う云ひ合つて、抑揚の鈍い濁つた混声の中から徒らに父のそれを認めようと努力したのであるが、また母は祖母に計る代りに私に問ひかけて空な微笑を浮べた。――唱歌の途中に一個所太い調子放れのした声が一寸と韻律を乱すやうに、強ひて聞けば聞かれるところを根もなく指摘して、私達は、ひとりぎめに、あれが父さんだなどと戯れたのであるが、母はこゝでも同じやうなことを云つて微かに笑つた。日本人は父より他に居なかつたので、さう思ふと、その声は他のと一寸違ふやうにも聞えた。
「これ! これが! さうだなんて皆んなで話し合つてゐるの……」
母は、祖母に同意を求めたりした。
祖母は、黙つてゐた。――ふと娘が、その老母の顔を眺めると、その眼には涙がやどつてゐた。
私達は、こゝに泊ることは珍らしくはなかつたが、その晩も言伝を頼んで泊ることにした。――私達は、此方を主にして暮したこともあつた。
私は、先にうたゝ寝をしてしまつたが、夢に怯かされて眼を開いた時に、母が小娘のやうに祖母の傍に突ツ伏して細かに肩を震はせてゐるのを見た。それが、芝居の場面のやうに遠くに見えた。
泣いてゐる! と私は思つた。私は、習慣になつてゐる目醒めの悪い愚図を鳴らすのを堪えた。
私は、この間あれだけの甘さを持つてゐた柿がシブくなつてゐるはずはないといふことや、それにしても試して見る術がないので困ること、棄てた柿がもう黄色くなつて腐つてゐるだらう――そんなことばかりを考へながら眠つた。
それから幾日かたつてのことである。
月夜には、未だ間があつた。
何処の柿もみんな青かつたのに、庭隅の大々丸と称ふ柿だけが奇妙な薄黄色を帯びて来た。この木には数へられるほどの実がなるだけだつたが、何処の柿より質が好くて、十三夜までおくと夏蜜柑ほどの大きさに熟るのであつた。祖母は、十三夜の供物にするまではこれには一つも手をつけないのが習慣だつた。
まだ鴉や虫がつく頃でもないのに如何したのかしら? と祖母は、不思議に思つて丈の低い樹なので好く好くあらためて見ると、何の実にもほんの少しずつの傷が負はされてゐた。そして薄黄色を帯びた悉くの果実の皮膚は光沢と弾力を失つてゐた。一層好くあらためて見ると、その傷はたしかに人間の歯型の痕だつた。
私が或る日、一番登りやすいこの木に秘かに登つて、なつてゐるまゝで一つ一つのシブ味を
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