ついての問答をとりかはしてゐた。初めの月夜に出会つた時に青い柿の渋は一度はなくなるが次の闇夜が来ると、それはもう一度もとに戻つてしまふのである。そして二度目の月夜が回つて来ると今度こそはほんとうに渋味がなくなつて、はぢめて柿はうまく喰べられるやうになるのだ――。
 さう祖母は、いつものやうに説明したのであるが私は、諾かぬ風に首をかしげてゐたのである。
「ぢや、お月夜にさへなれば直ぐにその晩から急に渋はなくなるの?」と私は、まさか! といふ調子を露はして問ひ返した。
「さう。」
 祖母はきつぱり答へて「あゝ、その晩から。」と深く点頭いた。馬鹿気てゐる! と私は思つた。
 祖母の家の周囲には、私になじみの深い柿の木が十何本も数へられた。――どの木にも、これがやがて赤く熟るのかとは想像も出来ない堅くて青い果実が鈴なりになつてゐた。私は、水のやうに明るい月光が樹々の上にさらさらと降り灑ぐ夜の光景を想つた。無数の青い実が蒼白い光りを浴びて、光りに磨かれて生々と浮びあがつた。青い実の滑らかな膚は、冷い汗を滲ませた。夜露ではない、あの苦々しい渋味が汗になつて滲み出たのである、月の光りは、そんな不思議な力も持つてゐたのである。そして、間もなく幻灯のピントが極度に明るくピタリと一定した瞬間と同じやうに、美しい月の光りが大手を拡げて輝き渡つた刹那に出遇ふと、あの無数の柿の実は、感極まり、一勢に打ちそろつてハラハラと最後までの涙を滾し切つてしまふのである……。
「おや、あんなに好いお月夜だつたのに、雨にでもなつたのかしら?」
 眠りに就いてゐた人々は、ふと耳をそばだてゝ斯う呟くに違ひない。――翌朝人々が起き出て見ると悉くの柿の実が一夜のうちに明るい赤味をつけてゐる。人々は己れの眼を疑つた。そして彼等は、あの雨がこの奇観をもたらせたのだらうと思ふ……。
「キネオラマ見たいだね。」
 自分の思ひ過しを忘れて私は、嘲るやうに呟いだ。祖母の話を信じるには自分は、そのやうに花々しい奇蹟を想ひ描かずには居られなかつた。私は、万の窓々に一時に灯りが点るキネオラマといふ見世物を例に思ひ出して、祖母の提言を無稽に嗤つた。――「いくらお月夜になつたつて、そんなに急に渋がなくなるなんて!」
「誰がお前に嘘をつくものか。」
「それに――この間、一つとつて、一寸と舐めて見たけれど、やつぱり甘かつたよ。」
「だから、その時は、この前のお月夜のうちだつたんだよ。お前はそんなことにも気がつかなかつたのか?」と祖母は、私の強情を折つた。
 そんな話は、祖母らしい単なる童話的のものに過ぎない、と私は思はずには居られなかつた。でなければ、柿の実を、点いたり消えたりする灯りにでもなぞらへるより他はなかつた、私の想ひでは――。
「そんなに早くから柿などを喰べる馬鹿はない、勿体ないことだ!」
 案の条祖母は、さう云つた。そして樹木の生命を説いた。熟らぬ果物を無駄にすることが如何に罪深い悪徳であるか! といふことを因果に律して物語つた。――だから自分には「月夜と柿の渋の話」が実際とは思へないのであるが、別に、祖母の宗教的な訓話は常々から体得させられてゐた。そして、怖ろしかつた。私は、近所の子供達のやうに熟らぬ果物に手を出したりするやうな悪戯は、決して行つたことはなかつた。
 余程思ひ切つた上で自分は、今祖母に、この間一寸と喰べて見た! といふことを告げたのである。疑ひを晴すために、青い実をもぎとつて噛んで見たのであるが、その時は確かに渋くはなかつた。だが、甘味もなかつたし喰べつゞける元気は持てなかつたので、眼を瞑つて、藪の奥へ投げ棄てたのである。祖母は、喰べるためにとつた果物が喰べられずに棄てなければならない時には、果物に向つて人に物を言ふ如くに謝罪して、芽が出る時を待つといふやうな励ましまで述べて、成仏させるのが常習だつた。その仰山な言棄を嗤ふ者もあつたが、私は嗤へぬやうに心から訓練されてゐた。
 苦い顔はするだらうが、実際としての「月夜と柿の渋の話」は取り消して、それを冷い訓話に換へるだらう――と私は思つたのであるが祖母は、頑として、
「だから、その時は未だお月夜のうちだつたんだよ。」と云ひ放つばかりであつた。
 お月夜だつたかしら?
 考へて見たが私は、夜のことは思ひあたらなかつた。私は、ほんとうに自分が負けたのかどうか? は解らない気がしたが、何となくつまらなくなつて、
「早く母さんが迎へに来れば好いな。」と呟いだ。笑顔をつくりながらではあつたが祖母に、折角なつた果物を喰べられもしないうちから無駄にするやうな人間は碌なものにはなれないぞ、これからは云々と堅く訓められて、おそろしく私は怯かされた。藪根の草葉の中から、歯型をつけられたまゝ棄てられてゐる青柿に眼があつて、憾みをのんで凝つと此
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