がゝつてゐるんだね……加けに、事件が斯う通俗的では物語にしても面白くはあるまい。」
 わざとらしく自分は、そんなことを云つて退屈さうな笑ひを浮べたりした。
「でも、あたし何だか嬉しいわ。」
 日が経つに伴れて私は、妻同伴といふことに非常なつまらなさを覚ゆるやうになつて仕方がなかつた。目的なんぞはどうでも好い、独りで伸び/\とする航海を続けたい、でなければ行き甲斐がない――そんな希ひが強くなつて仕方がなかつた。一年ばかりの予定だつた。
 置くとなると妻は母と一処にしなければならなかつた。自分の胸には、そんな思ひがあるといふことは自分としても容易に妻に打ち明けることは出来なかつた。
「阿母さんは、N――のことはほんとうに知らないのかしら?」
「知らないことはないでせう……」
 ――「周子は、嬉しがつてゐますよ、一処に行くことを!」
「あれは平気だらう、あんな風だから――」と母は、厭味を示して嗤つた。いつも自分は、こんな時に母に妥協する追従の言葉を吐くのが習慣だつた。そんな場合にだけ自分は、わずかに、不健全な親孝行を感じた。母に引き比べて自分の妻などが、若さなどの点では許されない女のたしなみに如何に欠けてゐることか? 何といふ粗暴な女であることよ! さういふ意味のことを悪く微温的な調子で語り合ふのが常だつたが、そして自分は秘かに自分達の卑俗性を感じて浅猿しさに打たれるのが常だつたが、また自分が母の先に立つて左様なことを口にすることも多かつたが――だが自分は、今ではもう潔癖からではなしにそんなやりとりが馬鹿/\しかつた。
「…………」
 だから自分は、母に反対する言葉を放つて見事にその不気嫌を買ふほどの生気もなく自信もなかつた。私は、妻の前で口笛を吹いた通りに烏耶無耶に、にや/\してゐるばかりであつた。そして、そんな場合には、終ひには知らず識らず走る、己れの菲薄性を宿命的に踏みつけるやうな妄想に駆られて、極めて漠然と業を煮やすのであつた。男の不誠実に不平を鳴して見たり、また女の自尊心の邪しまな強さを嫌つて見るのであつた。例へば、母のみを孤独に放つて、自分の立場ばかりを野卑に賑はしく吹聴したといふ父の姿は、寧ろ悄然と頼りなく写つた。凝つと堪えて、無味な日を送つて来た不幸な母の姿は、却つて力強く怪し気な光りを持つて私に迫つた、そして私に怪しげな安心を与へた。
 自分にしろ今こそ妻のことを余融あり気に冷たく母などに向ひ、また自分に向つて吹聴するものゝ、はぢめのことなどを考へて見れば、自分のみが決して空々しく受身なものではなかつた。それなのに自分には、はぢめから或る不誠実性があつた、自分が最も憎む! 男の不誠実性が――。自分達は、夫々の両親に失望させて、野合的な結婚をしたのに!
 そんな想ひにつまらなく辟易して白々しくなると自分は、自分の怯惰を幼年期からの変則な家庭の罪にした。型だけは厳めしいが、おそらくヒステリー的であつたらう母方の若くして後家になつた祖母と、そして母とから、自分は何かを歪められたのだ。その間で自分は、父方の無智に呑気な祖父母から甘い惰眠を授けられたのだ。そして私には、見たことのない父が遠い国に居るといふことを忘れられなかつた――。結局私は、父方の朗らかに放縦な血を何かに奪はれ、母方の根強い自尊心と謹直な保守性を何かに盗まれて――私は、斯んなに痩せてしまつたのだ。私みたいな姿の者は良家の誰にもなかつた。私の面だちは、両家の誰の面影をも伝へてゐなかつた……自分は、何処までも弱々しくそんな想ひが伸びて行くのに、踏み止まる力を失ひ、煙の中に吸はれ込んで自分の姿も掻き消えてしまひさうだつた。
「…………」
 自分は、たゞ母に同意してゐるやうな態度を保つて、妻に関する批難を予期してゐると、母は、ふと、慎ましやかに気色を変へて「その方が好いよ、でないと周子も私と同じ目に遇ふかも知れない。」と云つた。
「目に? ……」
「当人が一処について行くと云ふんなら結構ぢやないか。」
「……え!」
「英吉はあづかるよ、一年位わけもないことだ……」と母は、はじめての孫のことを云つた。
 母にとつても未だ吾々が傍にゐない方が好いのかも知れない――さう思ふと私は、母に一層安心も覚えたが、ふと私は、そつと唇を噛むほどな異様に意地悪るな爪と何も知らない退屈の手に襟がみをとられて、新しい夢から、悪く住み慣れてゐるもとの自分の世界に無惨に引きづり返された。

[#5字下げ]その二[#「その二」は中見出し]

「月夜になると――」と祖母は説明した。たしか、この次の月が十五夜にあたるはずだが、それまでには未だ七夜も過さなければなるまい? と祖母は暦を繰りながら、
「月夜にならなければ!」と、横柄に唇を突らせて更に呟いだ。
 月のない或る初秋の晩に祖母と私は、柿の渋に
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