ば、こんな苦しみもなかつたものに――さう思つて、堪らない後悔を感じた。
泉水の鯉を眺めても、可笑しいほど羨ましかつた。子供の時分、私は海に行くことを許されなかつた。その代りこの小さな泉水に盥を浮べて乗り回つた。私は、玩具の舟を沢山浮べて、自分だけは盥に乗つてガリバアの小人国巡遊になぞらへたりした。港をつくつて、貿易を始めたりした。暴風雨を起して舟を沈め、陸に這ひあがつてロビンソンクルウソオの冒険を試みもした。……海辺の行楽を知らずに過した。中学に入るやうになると、友達が海へ行くために迎ひに来たが、今更泳げないといふのも間が悪い気がして、様々な口実をつくつて断つた。たしか私は、中学二年の夏まで泉水で戯れた。
俺は目方が軽いから、今だつて若しかすると盥に乗れるかも知れないぞ――私は、真面目でさう思つた。と同時に、私は何の思慮もなくシャツ一枚になつて、跣で庭に飛び降りそつと物置から盥をさげ出した。そして泉水に浮べたのである。
盥の真中に坐つて、腰と背骨で中心をとる方法は、永年の経験で今だに巧みなものだつた。盥のふち[#「ふち」に傍点]は、殆んど水の表面とすれすれになる位まで沈んで、そし
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