説伏させられないものでもない、と思つて遠慮した。さうは思つたものの、凝《ぢつ》と悩まし気に、深刻気に、眼を凝《こら》し口を引きしめてゐる藤田の表情を眺めてゐると、妙に圧迫されたり、また彼が偉いもののやうに思はれたりした。
 私は、机に向つて架空的な思ひを凝した、藤田が云つた、「微風が触れても啜り泣く。」といふ言葉と「宇宙には善もない、悪もない。」といふ言葉とが、奇妙にチラチラと眼の前に翻つた。架空的な想像は、それで消えてしまつたのである。――この頃の生活を漫然と書き流して見るかな、照子のこと、Fのこと――それより他に心に触れてゐるものもなかつたが、それを書くことになると、主人公であるべき自分が惨め過ぎてならなかつた。
 いつそ、未だ照子とFとが知り合ひにならなかつた頃、照子の前ではFのことを、Fの前では照子のことを、ああいふ[#「ああいふ」に傍点]風に仄めかしてゐたところを、更に輪をかけて、二人の女に悩まされてゐると云ふ風に書いてやらうかな、口惜しいから――などとも思つた。
 照子の顔が浮び、Fの顔が浮んだ。――私は、思はず亀の子のやうに首を縮めた。なんとしても空々しかつた。
 私は、
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