れ! 私は水泳の一哩のチャンピオンだ。そして、それは、私の凡てのスポーツの中で一番得意な業だ。――お前は何哩だ?」
「二哩だ!」と彼は夢中で答へた。実際の彼は一町も完全には泳げなかつた。
「私は幸福だつた。」とFは云つた。「今年の夏は私の鎌倉の別荘に是非来てお呉れ。そして私の水泳の教師になつておくれ。」
 彼の胸は、異様な戦きを醸した。――「よしツ!」と彼は下腹に力を込めて決心した。……夏休みになつたら、直ぐさま何処か遠方の水泳場へ出掛けて、万事を擲つて専心泳ぎを練習するぞ、一ト月で上達するだらう、そして……そして――彼は様々な幻を描いて、馬鹿気た興奮をした。「よしツ、俺も男だ。」そんなことを胸で呟いたりした。
「お前に、そんな技量があるとは私は夢にも知らなかつた。」
 Fはさう云ふと、平手で軽やかに彼の頬をはたはたと叩いた。……彼の興奮は次第に、涙ぐましく溶けて、その甘さはいつか情けなさに変つて行つた。
「夏になつたら山の温泉にでも行つてしまはうかな――」ふと、彼はそんなことを思つた。
 Fは、お午のテーブルを手伝ふのだと云つて台所へ走つて行つた。――彼は、椅子から離れず凝と庭を眺め
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