ぢやお前は、もう東京へ帰りたくなつたらう?」
「あゝ、帰りたくなつたね。」と云つて彼はにやにやと賤しい笑ひを浮べた。そんな因循な反語的態度を知らない快活で正直なFは、
「おゝ、それは困つた!」と鮮かに眉を顰めた。「課業の方は自由なの?」
「ボートレースの準備で、当分休講だ。」
「お前はレースには出ないの?」
「出ない。」
「お前は運動は不得意なの?」Fは一寸嶮しい眼付をして、彼の返答を待つた。不得意には違ひなかつたが、不得意だと正直に答へてしまふのが、彼は具合が悪かつた。常々彼はFの趣味におもねつて、いかにも自分は運動好きの快活な若者であるといふ風に見せかけてゐたから――。
「僕は、思索が得意なんだ。」と彼は苦し紛れに答へた。Fは少しも可笑しがらずに、
「ぢやお前は詩人なの?」と訊ねた。
「……」彼は思はず、顔をあかくして口ごもつた。
「Fは詩人が好き?」彼は、急に蚊のやうに細い声で怖る/\呟いた。
「私は、アラン・ポーとウォルズヲルスと、ジョン・キーツとそしてバイロンの詩は好きだ。」と躊躇なく云ひ放つた。何々と何々との詩は、――と「は」で断定し切つたFの度胸で、彼の心は一撃の許に震へてしまつた。そして内心Fの博学に舌を巻いた。……此方の無学を発《あば》かれぬうちに一刻も早く話題を転じよう……と彼は思つた。夫々の詩人の特質どころか、学校でキーツの講義だけは少しばかり聞いたが、生憎教師が低い声で、末席にばかり坐つてゐる彼には教科書に仮名をつけることも出来なかつた。
「お前は誰が好き?」
「僕は日本の白秋・北原は好きだ。」
「お前自身は詩は作らないの?」
「嘗て、一度も……」
「そして今後は?」
「多分駄目だらう。」
「お前は、たつた今思索が得意だと云つたが、それは主に哲学的思索なの?」
「……」彼は、空腹に酒を呷《あふ》つた時のやうにカツと顔のほてるのを感じた。彼は漸く口を動かして、
「Fは哲学者の本も読んでるの?」と訊くことで返答に代へた。
「私は哲学者は一人も知らない。」
彼は、吻ツと胸を撫で下した。「僕は大体系統的には読んでゐる。僕には近代のものよりもどうもグリークのクラシックの方が面白い。」
こゝで多少の智識でもあれば得々と弁じたてようと思つたのだが、生憎彼はそれ以上云ふことは無かつた。
「でも僕はそれらの哲学者を研究しようなんて少しも思はない。」
「お前
前へ
次へ
全7ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング