者は、この頃では、鍛冶屋の前を通る時には、
「お早やう!」
 と叫んで、振り向きもせずに駈け抜けるやうにしてゐた。
 と、屹度、娘も、槌を止めて、何か云つた。――「ヒツプ! ヒツプ!」と、口笛のやうな声をおくることもあつた。
「靴を買つて来てお呉れ! そら、お金よ。」などゝ、駈け寄つて来て、若者の胸先きに財布を投げつけることもあつた。
「オーライ!」
 と、云へることゝ、云へぬことゝがあつた、若者は――。だが、娘からの頼みを忘れたことはない。
 三つの村を通り、二つの橋を渡つた後に漸く若者の馬車は市場のある町に着くのであつた。
 ……夏だと、白い川の堤に差しかゝつた時分に夜が明けるのがならひだつた。屹度、そこで白々と空が明るくなるのが常だつた。そして若者の胸に、娘の映像がはつきりと現れ出すのが例だつた。――白い川の堤を、ゆた/\と進みながら、娘の白い幻をあざやかに空に描くのが、若者の秘やかな悦びだつた。
 曙の薄明りの中で若者は、娘を堅く抱き締めた。
 明方の白い川である。若者は、寝屋の夢でも屡々この堤を見た。御者台に娘と肩を組んで並びながら堤を進んで行く白い夢を、若者は屡々見た。
 
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