に――行け、行け、行け!」
若者は、パンアテナイア祭の戦車競技に選ばれた幸福な、そして悲愴なアハヴの心を心としてしまつた。――ほのぼのと明け放れた朝霧の中で、若者のタイキは花々しい嘶きを挙げて快走した。
そのまゝ鍛冶屋の前を駈け抜けてしまふ決心だつたから、
「寄つてつて頂戴!」
娘がタイキの轡をとつた。ロータスを、いつか若者はこの娘に扮装させて、幸福な騎士にしてゐた自分から、不意に醒めてドギマギしてしまつた。若者は、真赤になつて、
「早起きだね!」
と、無愛想に云つた。
「早起きだつて? あたしが――。毎朝々々お前の車が通る時に起きてゐるのは吾家《うち》と、水車屋さんの二軒にきまつてゐるのを知つてゐるくせに……。何を空とぼけたことを云つてゐるのさ。」
「いや、それは間違へたか!」
若者はソフト帽の前《ひさし》をおろしながら云つた。
「でもね、今朝は少々お願ひがあるのよ。ミヤツ村が今日からお祭りで、招ばれてゐるのよ。途中まで乗せてつて貰はうと思つて待つてゐたの――」
「待つてゐる間に、まあ一杯! こいつを一つ仕上て置かないと義理の悪いことがあるんで――」
娘の父親はジヨツキの酒を若者にすゝめた。娘と父親は槌をとつて馬蹄を打つた。朝から晩まで槌を打つ仕事に励んでゐる父と娘だつたが、若者は彼等の仕事を足をとめて眺めたのは今朝がはじめてだつた。
カーキ色のシヤツの袖をまくしあげて、唇をしつかりと引き結んだ娘は、早朝から一杯機嫌の父親が、槌に合せて、飄逸な掛声で音頭をとつても、眉一つ動かすことなしに、夢中で重い合槌を打ち続けた。娘の額からは玉の汗が流れた。
「手伝はうか?」
と若者は云つた。
「素人には――」
娘は耳もかさなかつた。
娘の槌が降りる毎に綺麗な火花が飛び散るのを若者は、胸が一杯になるやうな想ひで眺めた。
明る過ぎる街道
娘が他所行の着物に着換へて、赤い帯を締めて仕事場に現れて来た時には若者は、ジヨツキの酒を皆な空にしてゐた。若者は、酒を口にしたことは殆ど験しがなかつたが、綺麗な仕事を眺めてゐるうちに奇態な有頂天を覚えて、うか/\と飲み尽してしまつたのに気づいて吾ながら吃驚りした。
「ぢや出掛けようか――」
若者はさう呟いて立ちあがつて見ると、頭が風船のやうに軽くフワ/\として、何だか酷く愉快な気がした。
「ちよいと待つて――
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