いつの頃からか若者は、その川のことを「白い川」と独りぎめに称んでゐた。或日、市場からの帰りに、旅人に村へ行く近道を尋ねられると若者は思はず、
「あの白い川の堤に添つて――」などゝ教へて、不図苦笑を覚えたことなどもある。明方の印象だけが深いので若者には何時もそれは白い川だつたが、その時は快晴の真昼時で水はあたりの新緑を深く映して、一面に青く光つてゐたから――。
この頃若者は、白い川のあたりから、町に入るまでの間、御者台に首垂れて本を読み続けることにした。タイキは道に好く慣れてゐたし、出遇ふ者のある筈もなかつたから別段手綱を執る要もないのである。馬は間違ひなく、それで、町へ着くのである。若し若者が全くまどろんでゐたとしても――。
……「俺は昨夜不思議な夢を見たよ。お前が今俺におくつて呉れる次々の輝かしい言葉に答へる俺の悦びの返事を、俺はすつかり昨夜の夢でそらんじた。だから、万一俺が今お前に答へる言葉が、お前にとつて不満であつたにしても、どうか悪く思はないでお呉れよ、ロータス!」
「お前が若し、妾《わたし》の言葉に対して一切の沈黙を守つてゐようとも、妾の心はあらゆる輝かしさに満ち溢れてゐるから、この上もう、何んな言葉も要らない。勇ましい姿のアハヴよ。橄欖の冠は必ず汝の頭上に落ちるだらう、ゼウスにかけて妾は疑はぬ。」
若者は、白い川のほとりを進みながら、こんな言葉を声をあげて朗読した。遠い昔、ギリシヤのこと、パンアテナイア祭の戦車競技に出陣する勇士とその恋人の物語である。
若者は、一行読んでは書物を胸に抱き、空を仰いで恍惚とした。白い川のせゝらぎの音が、群集のざわめきでゞもあるかのやうに颯爽と若者の耳に伝はつた。
若者の脳裡では、アハヴが自分となり、ロータスが鍛冶屋の娘に変つたりした。
「アハヴは腰の剣を抜き放つと、天をさして高唱した――ロータスよ、別れだ!
ロータスは恋人の剣をとつて、薔薇の枝を剪つた! そして、誉れに輝く勇士の鎖かたびらの胸に真紅の薔薇をさして、云つた。――発ち給へ、道々にこの花片《はなびら》を撒きたまへ、妾はそれを一つづゝ拾うてお前の戦勝を祈らなければならない! 夢にも後を振りむくことなしに、この瑠璃色の朝陽を衝いて、さあ、一散に発ちたまへ……」
若者は、震へ声で朗読した。若者は、思はず御者台に立ちあがつて、空に向つて拳を振つた。
「一散
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