ない今日此頃の水勢ならば、丁度黄昏時に出発した花舟は、明方になつて此処に着くであらう。」
 と云ひ、彼の壮年時代には、真実この流れを唐松村の人々は郵便網として使用してゐたが、そして水門の傍らに四つ手網型の郵便受を備へて置いたものであるが、――などゝいふことを附け加へた。
 Styx――三途川と振り仮名するのは、稍私の意に添はぬが、今、私の眼下から白々と晴れ渡つて、壮麗な大気の静寂を縫つて無限の面持で流れをも忘れたかのやうな吹雪川は、降れば雲に達するかと見ゆるばかりの、もの静かなる漠々たる明朗さに一切の疑惑と妄迷を呑み込んだ The Lethe(もの忘れ河)となつて、曙の雲の裾に消えてゐた。私は、あの騒ぎの幻の後に展けたこの Stygian River の往く幽明境《フアテイア》を、太鼓を打ち鳴らしながらたどらうとするかのやうな己れを見て、あはれとも悦びともつかぬ決して云ひようのない不思議な陶酔を覚へてゐた。――と、その雲を衝いて、一散に駆けて来る娘の姿が、積乱雲の中に現れた一点の鳥と見へた。
「先生――先生――」
 見ると居酒屋のマメイドである。珍らしい草花でも発見したことを告げに来た
前へ 次へ
全43ページ中35ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング