びあげた。「夜露の情けは、もう、待たずとも――」
「この腕の続くかぎり――」
 雪五郎が、そろつて、朝靄の底から窓を目がけて赤松のやうな腕を突き伸した。そして、
「祭りは上天気ですぞ。」
 と目醒し気に唸りながら、川べりをのしのしと柳の影へ消えた。流れは、流れのさまをたゞよはすことのない静けさで、はつきりと白く川下へ見霞む果までうねつてゐた。浮ぶものゝ影があるならば花の一輪であらうとも、眼にとまる澄明さであるが、私の眼をさへぎる水馬《あめんぼう》の影さへ見へぬ眺めであつた。
 はつきりと、もう明け放れて陽《ひかり》の金色の箭が山の頂きを滑つて、模型と化してゐる水車の翼に戯れながら、川岸の草々の露を吸ひとつてゐた。私は、もう、この川岸の草花の名前は、あますところなく知り尽してしまつてゐた。おみなへし、へらしだ、われもかう、烏萩、こうや万年草、いちはつ、狐の行灯、烏瓜、ぶらぶら提灯花、孔雀歯朶、盗棒萩、犬虱、しほん、獅子舞ひ蓮華、猫柳……等々と、一見見渡したゞけで忽ち百種類も数へあげることが出来るのである。それ故私は、川上から流れて来るものの中にも若しや私の知らぬ花がなからうか? と、噂に
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