雪五郎がそう云つて悦びの胸を張り出さうとすると私が危く膝からこぼれ落ちかゝつたのを、雪太郎が置物でも持ちあげるように軽く自分の膝に享けとつて、
「その天秤の後ろを担ぐ私も――」
 と続けて雪二郎が更に私を膝の上に享け渡されて、
「一家そろつて斯んな目出度いことがありませうか。」
 と、決して下には置かぬ歓待であつた。
「おゝ、先生、あたしにはもうはつきりと太鼓の音が聞えますわ……」
 メイ子は身を震はせて私にとり縋ると、さめざめと嬉し涙を流した。
 お天気続きを悦んで水車をも休め、豊年祭りが近づいた、やがてのことには雨も降るだらう、そしたら回つて/\黄金の餠を搗いてお呉れ――雪五郎達は、そんなやうな意味の「水車小屋の唄」を歌ひはぢめた。ガラドウ達の襲来などは全く意にも介してゐない素振りであつた。そして一同は傍らに積んである赤松の薪をとつて炉端を叩きながら歌の調子をとり、私も釣られてタクトを振らうとしたが、決して片手では持ちあがらなかつた。
 それにしても水門の水勢がもう弱る頃ほひだから、扉を閉しに行かなければならぬ、だが、大変車が目醒しく廻りつゞけてゐるではないか――と云つて兄弟が窓から外を眺めた途端、
「やあ、雨だ!」
 と叫んだ。その表情に私は、恰も「悲劇」と「喜劇」の分岐点に踏み迷ひつゞけて、ひたすらにガスコンのバラルダに追ひつ追はれつしてゐる私自身の心象の現れを見た如き囚へどころのない雲に似たものを感じた。
「雨――あゝ、雨の音だつたのか、それが私には遠くから響く太鼓と聞えてゐたのですわ。」
 メイ子も名状し難い面持で両掌で胸を圧えながら、祈るやうな眼をあげた。――「道理でガラドウ達がやつて来ないと思つたら……」
 見霞む野面の果から、激しい雨脚の轟きの音が朦々たる雲を巻き起し風を交へやがては雷鳴を加へて疾走して来た。その雨を衝いて水門に駆けつけた雪太郎が、こんな花束が流れて来たと云つて、私に、全く私の知らぬ名前の花束を渡したが、私はそんなものを験める気分もなく、ぼんやりと窓に凭つて、爽烈な吹き降りの野末をひろく見渡してゐた。一頭の裸馬が、私の眼界の果を水煙りの尾を曳いて一散に横切つて行く後を、一個の黒い人物の点が起きつ転びつしながら宙を飛んで追ひかけてゐた。
 不図私は背後に笛に似た歔欷の声を聞いた。止絶れ/\に何か呟いでゐる様子であるが、狂気となつて廻転しはじめた水車の音や雷鳴に消されて何の判断もつかなかつたが、どうもそれは炉傍で仁王のやうな腕を組んでゐる雪五郎の喉から洩れでるものらしい――と思ふと私は、突然、(もの忘れ河)のしぶきを浴びた野鹿の化身となつて、一声高く不思議な叫び声を挙げるやいなや、岩ほどの雪五郎の坐像に突きあたつて、その頭部となく背中となく滅多打ちに、ぼかん/\! と打ち叩いた。



底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
初出:「中央公論」中央公論社
   1931(昭和6)年12月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年1月15日作成
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