世はかくまでに老ひしかな……云々以下三|聯《スタンザ》から成るゲルマン族の牧歌を、奴は、滅茶苦茶にひつちやぶいて、マメイドといふ私が好意を寄せてゐる居酒屋の娘の頭に雪と散らした。その由を私はマメイドから聞いて、非常に自尊心を傷けられた。また彼は、マメイドに向つて、彼が私を目して、三通りの尊称を使ふのは、
「大馬鹿先生」――「自惚博士さん」――「貧棒の大先生」といふ意味なのだ――。
「それを知らないで、好い気になつて小鼻をふくらませてゐる格構と云つたら……」
そんなことを云つて、ひとりで腹を抱へてゲラゲラと笑ひころげた――。
「先生、あたしは、ふんとに口惜しかつたわ、先生とあたしと仲が好いことを、あいつと来たら飛んでもない風に思ひ違へて、あんな博士とは喧嘩をしてしまへ、そして、俺と好い仲にならうではないか――だつて!」
河原で摘んだ花束を携へて私を訪れたマメイドが、悲しみに首垂れながらそのやうなことを伝へたことがある。それに違ひない、好意を持つてゐると云つても私がマメイドに寄せてゐるそれは恋情沙汰ではない。この家の雪太郎は私と同年輩の三十余歳であるが、親想ひ、兄弟想ひの律義者で、営々としてこの水車小屋の経営に没頭し通しで、未だに妻も持たなかつた。私は、もう少し、この水車《すゐしや》が順調となつたならば、是非とも彼とマメイドとを夫婦にさせてやりたいものだ――と希ふてゐる、二人とも行末長く私の友達として苦楽を共にするに適はしい人物である――左う云ふ意味の好意なのだ。また、雪太郎父子は、見るかげもなく落ぶれ果てた私が妻を引き伴れて、もう長い間この家の二階に籠居してゐるのだが、恰も私を代官のやうに尊敬して、下にも置かぬもてなしである。いわれと云へば、昔、私の先々代の田畑がこのあたりにあり、その米を雪五郎がこの水車《みづぐるま》で搗いたといふだけの話で、寧ろ私方が憎まるべき不労所得の搾取階級に違ひなかつたのだらうが、そんなものゝ子孫を未だに有りがたがつて、私が町のあばら屋で寒さに震へてゐるといふことを聞くがいなや、米運びの馬車に赤毛布の座席をつくつて、鞭をならしてはるばると駆けつけたのである。以来私は、夫婦仲睦じく、この家に起居をつゞけてゐたのであるが、雪五郎の娘のお雪を襲ふアヌビス共の鋒先が日増に猛々しい火花を散らして乱入して来るといふまことに容易ならぬ状態に陥つたので、
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