ダニューヴの花嫁
牧野信一

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)白雲《はくうん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)矢の倉[#「矢の倉」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)雲が/\/\……。
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

     一

 白雲《はくうん》は尽くる時無からん、白雲は尽くる時無からん……白雲は――。
 おゝ、あの歌はどこの人がうたつてゐるのであらう、何といふ朗々たる音声であらうよ、その声がそのまゝ雲のやうだ、あゝ、あゝ、あれを御覧、あれを御覧、雲が/\/\……。
 そんなに思つて、うつとりと口をあけてゐると、みるみるうちに青空はるかに棚引いてゐる白い雲が、ハラ/\と雪のやうに飛び散つて、降つて来る! 降つて来る! こんこんこんと飛び散つて来るかと思ふと、私の眼蓋の上に来て、ほとほとゝ愛らしい音を立てながら小鳥のやうに羽ばたくのであつた――それにしても、その羽ばたきの触感が、冷たくも何ともなくて更に更に甘い睡気を誘ふのであつた……。
「面白い/\!」
 と私は呟いだ。
 ――夢から醒めた。
 私は、河畔《かはべり》の葦の洲の上で、一方の腕をたくみに水の上にのばせてゐる茱萸の樹の枝から枝へ吊つたハムモツクで、うたゝ寝の夢に烏頂天となつてゐた。
「はははは……こゝまで来れば、例によつて先生の風琴の音が聞えるだらう、そいつに勢ひを得て一ト息に矢の倉[#「矢の倉」に傍点]までのしてしまはうと思つてゐたところが、ぐつすりとおやすみぢや仕方がないや……」
「誰にしたつて、この陽気ぢや眠くもならうと云ふものさ、なあ兄さん――未だ、じぶん時には少々早からうが、俺らも此処であつさりと弁当をつかはうぢやないか。」
「さうだ/\――よういとまけ/\……」
 ありのまゝの言葉づかひにしては、あまり間のびがしてゐて、恰度この河の流れのやうに悠長すぎるではないか――だから、それも私は、夢の中の歌ぢやないかな? といふやうな思ひにうとうととしてゐると、間もなくギイツといふ舵をまげる音がして、やがて舟は舫杙につながれた。そして雪太郎と雪二郎がのこのこと私の下に現れた。
「やはツ! やつぱり左うだつたのか……君達の話声が、あんまり朗らかなので、僕は夢の中で天狗と散歩をしてゐたんだが、そいつがそのまゝ天狗の声と響いてゐた。はつはつは……麗らかな天気ぢやな!」
 私は、吊床に腰をかけて二つ三つ大きく揺り動かせながら、それと同じやうに大きくわらつて、ばさりと兄弟の前に飛び降りた。そして、ひようきんさうに鼻高のシラノのやうな見得を切つて、胸をひろげた。
「そいつは、どうも――」
 兄弟は同時に肩をゆすつた。
「折角の素晴しい夢をお騒がせ申して、何とも、いやはや申しわけがありませんでしたな、あつはつは……」
「一処に登らうよ。斯んなところで弁当を喰ふのも張り合ひがないと云ふものだ。」
 云ひながら私は、二人の間を割つて夫々の肩に翼のやうに腕をかけて歩き出しながら、脚もとの田舟を指差した。
「矢の倉まで行かう、風琴は持ち合さなかつたが、舟歌は一手に引きうけたぞ、ヘツヴ・ハウ、ヘツヴ・ハウ My heartful......sky wearing my solitary heart upon thy sleeve ……どんなもんだい。待つてゐたんだよ、彼処までたどり着けば、もう君達は今日は用事はないんだらう。ともかく僕は愉快なんだ。斯う天気が好いと、僕は、今、この場で息を引きとつても、さらさら心残りは覚えぬといふ位ひ、事ほど左様に僕はこの天気が愉快なんだよ。」
 そんなに愉快なのなら、昼寝なんかしてゐないでも好さゝうなものなのに――と聴く者の耳を疑はしめたほど、急に私は浮々として、おしやべりを続けながら猶予なく舟のなかへ飛び込むと、段々になつて積みあげてある米俵の頂上に馬乗りとなり、額に手を翳して、四方の景色を見渡しながら、
「もう春だな……」
 などゝ唸つた。
 その河畔の丘の上に私の部屋の窓がのぞいてゐたので、私達は何時もその窓枠に並んで手風琴を弾きながら、下を通ふ田舟と呼応した。
 ――だが私の妻君が、ひとまづ先へ都へ登つてしまつてからは、手風琴の蛇腹に風穴でもがあいたかのやうに、私は力が抜けて、そゞろに白々しく瑟々たる風に襲はれてゐた。
 だから、私は稍ともすれば河畔に降りて、友達が通りかゝるのを待ち伏せてゐるのであつた。中には私のさしまねく姿を見ると、艫おしの腕を急に速めて、せつせつと行き過ぎてしまふ舟もあつた。無理もないのだ。何故なら、うつかり私の甘言にさそはれて錨を降さうものなら、大事な弁当を分捕られてしまふおそれがあつたから――。
 こゝは車も通らぬ山坂の通ばかりで、河のみが往来《ゆきき》の大通りに使はれてゐる私達の小さな竜巻村であつた。
 雪太郎は、うむうむと合点して舫纜を解くと、舳先に立つて竿を構へ、弟は艫の座席に着いて発動機のスヰツチをいれた。ランプほどの容量のエンヂンは、重い積荷のために水中ふかく姿を没してゐる推進器の翼を、水底に音を吸はせて、徐ろに廻転しはじめた。
「おや/\!」
 と雪太郎が眼を丸くして、汀に竿を突きながら私の窓を見あげた。「お宅の窓は明けつ放しぢやありませんか?」
「それにしても……あツ、誰かゞ窓を閉めてゐるよ、桐渡さんぢやないかな!」
「云つて呉れるな。」
 不図私は眉をくもらせて、あらぬ方へ眼を反向けた。「百鬼夜行の有様なんだよ――文学に没頭してゐる俺を、寧ろ幸ひにして、恰も気狂ひ扱ひにしてゐる、然し僕だつて、ものゝ事情位ひは解るんだけれど、そんな事に関つて、やれ、それは俺の財産だぞ――とか、俺は斯んな借金をした覚えはないよ――などゝ云ひ出したひには、単にそれだけのことが、充分に俺の仕事になつてしまふ、それが俺の生きる道になつてしまふ、文学に没頭する暇などはなくなつてしまふ――やがて、好い加減な田舎の紳士にはなれるかも知れないが……」
「………」
 夫婦は分れる、着物も無くなる、住居の定めも怪しい、それで何が文学か――なれるものなら、好い加減であらうと、しみつたれであらうと、田舎の紳士となつて鬚でも生したら結構なものであらうのに――雪太郎は、まさしくそんな風な思ひで首を傾けながら、破れ靴にインヂアン・ジヤケツトといふいでたちの私の様子を気の毒さうに振り返つた。
「何だい、雪太郎、その眼つきは――。今夜から俺は、ほんとうの自分の仕事が出来るといふことになつてゐるところだといふのに、憐れつぽい眼つきは禁物だよ。」
「ほんとうですか?」
 と艫の方から雪二郎が声をかけた。「仁王門の裏二階は、もう一ト月も前から準備が整つて、先生の御入来を待つばかりですぜ。」
「奴等が俺の帰来を希はぬのを逆用して、さうだ、このまゝ俺は仁王門の住人となつてしまはう――」
 矢の倉の鎮守の森では、社の御神体は二三年前に桐渡鐐通達の村会議員の胆入りで、彼等の村社に合体されて、空社となつてゐたが、近郊の音に響いた有名な仁王門は、昔ながらに森蔭の正面で逞ましい見得を切つてゐた。村費をもつて、それもそのまゝ隣村へ移転させやうといふ議もあつたが、意外に嵩む移転費の捻出に事欠いて、当分沙汰止みとなつてゐたところであつた。また桐渡等は、この仁王の作者が或る名工の腕に成つたものであるといふ鑑定をつけて、埠頭場の美術商に売却して、村境ひの本橋をコンクリートに架け代へようといふ議が起つてゐたけれど、桐渡の加名を知つて不信任を叫ぶ一党が現はれ、これも当分見合せとなつてゐた。桐渡派弾劾の連判書には、私もあざやかな母印を捺してゐる在野のデモクラツトである。
 それは左うとして、雪太郎の叔母が仁王門の裏で代々の休み茶屋を営んでゐる。社は空屋となつたが、国境の山を越へて遠く商ひに行く車馬の一隊は昔のまゝにこの休み茶屋で息を容れる慣ひであつたから、経営の困難もなかつたし、その上、桐渡派とその弾劾派の争ひが世間の注目を惹いて、仁王門に関する様々な迷信的の流言蜚語が飛び、見物人が日に日に絶ゆる事もない繁昌振りを示してゐた。もう一息、この噂が人気を呼ぶやうになつたら、雪太郎達は米運びの合ひ間に案内船を支立てようかといふ話まで持ち上つてゐた。いつぞや、その相談役に招かれて、私が仁王門の茶屋を訪れた事があつた。相談は何うなつたか、議長格の私が今は忘れてしまつてゐるが、何でも私はその晩わけもなく大ざつぱな太平楽を並べて、ぐでん/\に酔つ払つて帰途を失つてしまつた。
「ぢやお雪や、先生はお二階へ御案内申すかね。」
 手伝ひに来てゐる兄弟の妹に、お婆さんが左う云ふと、お雪が、夜中に目を醒しにでもなつて、先生が驚きはしなからうかと逡巡した記憶が私にあつた。店と、炉のある部屋がつゞいてゐるだけの家なのに、二階とは不思議だな――と思ひながら、お雪に従いて真つ黒なカーテンをくゞると、段々を二つ三つ上つたかと思ふと、真四角な箱のやうな部屋に達した。翌朝、私が目を醒して見ると、その部屋の三方には祝入営竜巻雪太郎君と筆太に認められた幟の幕に囲まれてゐた。それにしても、朱塗の逞しい柱や格子がうかゞはれると思つて、首を上げて見ると、一方の幟の向側に大岩のやうな仁王の背中が接し、天井と幟の合ひ間から大腕を揮つて虚空をきつてゐる仁王の肩から上が奇峭となつて眺められた。つまり、私の寝室は仁王堂の中の恰度門番が住むやうな二段となつた「楽屋」見たいな二階であつた。同じ広さの階下は、お雪の寝室で、二階は客用に使はれてゐるといふことを朝になつて知らされた。
 片方の三角の柱の格子からは、門を出入する人々の姿が見降せる、仰いでも、此方は薄暗いから、その上、チラ/\する格子を透しては中の様子は解らぬ。私は験しに下に降りて仰いで見たけれど、若しあの中に住む者があれば、囚はれ人か盗人の昼寝の洞にふさはしい――と思はれた。片方に仁王の肩中を屏風として、金網に囲まれ、そしてこの格子の下に机を据えたならば、実に私が人に秘れてもくろんでゐる規模雄大なローマンスの筆を執るには世にも適当な仕事部屋であると、深く吾意を得た次第である。
 私が、あの河岸の丘の部屋にゐると、それとなく桐渡やその部下の者が訪れて来て、東京へ赴くのは何時か、何日か、私は直ぐにも貴君がこゝを空け渡すと聞いて、既に貴君の母堂から借用してしまつたのであるが一体、そのローマンスとやらは何時になつたら出来上がるのか――などゝいふ風に、それでも私の気嫌を正面から苛立たせてしまつては、いろいろと不首尾の事情があるもので、適度に讒諂の笑みを含めて云ひ寄るのであつたが、さうと気づけば、私も仲々さる者であつて、どつこい、その手に易々と乗る者でもなかつた。
 桐渡達は、人里を遠く離れた丘の家を根城として、仁王門掠奪の議を回らせたり、車座となつて丁半の博奕を打つたりしたいばかりで、私の出立を急いでゐるのであつたが、さうなると私は寧ろ陰気な興味が起つて来て、わざと、夜昼の別をとり違へて、ぎろつとして、彼等の酒盛りの部屋の前を往行したり、また、私が寝台にもぐつてゐるのを見届けて、そろそろと悪事の相談会を開かうとすると、突然私の大きな咳ばらひにおどかされて、散会させられたりしてしまふのであつた。
 さつきもさつき私がハムモツクの上で、うと/\してゐると、彼等の仲間が様子を窺ひに来て、
「御散策にでもお出かけかと思つたら、斯んなところでおやすみですか、お仕事の方は如何ですか、お部屋が大分綺麗に片づいて居りますな。御出発のお手伝ひなら、私共にお命じなさいませんか。」
 などゝ云ふのであつた。
「なあに僕は――」
 と私は故意に飄々と云ふのであつた。何故なら彼等は、夙に私を目して風来的な素質に富んだ詩人と断定して、私が吐く言葉は決して他の心根を蔵さぬものと信じてゐた。「行かうと思へば、このまゝ、ぶらりと――誰に、何の挨拶もなく行つてしまふよ。あまり天気が好いので、今
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング