、それを考へてゐたところさ。」
 全く彼等との敵対行為は私に幾分の興味を呼び起してはゐたが、そんな気分にばかり関はり合つてゐると、つい、それも面白くなつて容易に仕事に手が出さうもなかつたから、一層舟をつかまへて、このまゝ出発してしまはうかとも考へてゐたのである。
「それは/\!」
 と彼等は思はず乗り出して、蔵する限りの愛嬌わらひを浮べた。「何しろ私達、畑違ひの者がいろ/\と出入りしては、御気分に触つて大事なお仕事の方が留守にでもなるでせうからな、私達も、もう、そればかりが心配で心配で恰もハレモノにでもさわるやうな思ひで、はら/\してゐるんですもの。」
「僕も、いつまで愚図々々しては居れんのさ、構想も、もう充分となつたから、仕事は都のアパートにでも行つて……」
「待つてゐますよ。先生の本が出ましたら、私達にも屹度読ませて下さいね。――楽しみだな。先生がこれから何んな立派な小説をお書きになるかと思ふと、私達はもう今から胸がぞくぞくしてまゐりますよ。」
 私のそれ[#「それ」に傍点]は時代を遠く戦乱の世にかりた伝奇小説ではあるものゝ、巻中に出没する多くの悪党共は、悉く奴等の姿をありのまゝ描破して、秘かに作者たる私が積年の鬱憤を晴さうといふ仕組みであつた。就中私は、それ自らが豪勇無比な荒武者となつて、従横無尽に花々しい筆端の刃を揮つて、群がる者共を手玉にとつて薙ぎ倒し、こばから首をちよん切つて、さしもの竜巻村に平和の風を吹かせるといふ、痛快至極な冒険譚であることを知らずに、彼等は、左う云ふと、一様に恍惚の眼を細めて深々と息を吸ひ込んだ。
「出かけたくなつたぞ。」
 私は、何か深い思惑でもあり気に、凝つと雲の彼方を睨めながら重々しく唸つた。すると、彼等は私の気分に逆ふことを、暴君の下僕のやうに怖れて、
「然し、そのまゝの姿でも、まさか出発は出来ぬでせう。なんなら今直ぐにでもお召物の用意を致しますが……」
「着物は、矢の倉に預けてある――新調の背広が一ト揃ひ――」
「ほゝう――さすがにお手回しのほどは万端行きとゞいてゐるんだな。何でも先生は、業々しい出発の騒ぎなどゝいふありふれた習慣は、きついお嫌ひの由で、何でもその日の風の向き次第、御気分の帆のあがり次第、時刻も関はず出発してしまふといふのが常々からのお心掛けのさうだが、さすが詩人だ、偉い変り振りだ――と皆なもうそれを聞いて感嘆の舌を巻いてゐるんですよ。」
「あまり、傍から兎や角云ふと、朗らかなインスピレイシヨンが消えてしまつて、元の部屋へ戻つて寝てしまふより他に始末がつかなくなるかも知れないよ。」
「やツ、それは大変だ。……然し、その路金の工面は?」
「煩いな。それも矢の倉にあるんだよ。」
 と私は眉をひそめた。――そして私が、再び瞑想的な面持ちで静かに眼をつむると、彼等は、口々に、口のうちで、
「叱ツ、静かに/\!」
「あぶねえ瀬戸ぎわだぞ!」
「ひや/\させるねえ!」
 などゝ呟きながら、抜きあし、差しあしでその場を立ち去つた。
 そつと私が薄眼を開いて見ると、三人の男が薄氷を踏むやうな真面目な滑稽な脚どりで、こそこそと葦をわけながら汀を離れると、ブラボウ! と叫ぶが如く翼を拡げて、まつしぐらに丘を駈け昇つて行つた。
 ……舟が、流れのまゝに大きく迂回して、木立の蔭にかくれようとする角に差しかゝつた時、私が彼方の丘を振り返つて見ると、さつき慌てゝ閉められたあの家の窓から、幾人もの悪人が重なり合つて、切りと帽子やハンカチを打ち振りながら、恰も出陣の首途についた荒武者との別れを惜しんでゐるかの模様であつた。

     二

「祝入営」の幟の中の私は、昼となく夜となく小さな古ぼけた経机の前で、鈍重な眼を据えてゐたが、言葉に変へるべく未だ脳裏の猛々しい情熱の渦巻きが余りに生々し過ぎるのを感じた。換言するならば、篇中に活躍すべき多くの登場人物を扱ふべき私の態度に、作者としての襟度と夢の不足を知つた。――続いて未だ少くとも二三ヶ月の「オーミング」の要を私は覚えた。
 朝、目が醒めると私の脚もとから胸先へかけて麗らかな陽が射してゐるかと思ふと、頭上の帷《まく》に大臼にも増した仁王の頭《かしら》が、くつきりと映つてゐることがある。また陽《ひかり》の加減に依つては大蛇が雲を呼んだやうに見える仁王の腕の影が、帷の一方から天井に抜けて駆け登つてゐることもあるし、脚もとのスクリーンに、ぱつと開かれた仁王の掌が、小さな私をその中に一と掴みにしてしまふ勢ひで迫つてゐるのに仰天させられることもあつた。私は時計などは持つてゐなかつたが、それらの仁王の影の部分的位置の具合で、誤りなく午前の時間を云ひ当てることが出来るのであつた。
 私は目を醒ますと、先づ呼鈴の代用として使つてゐる枕もとの木魚を叩くのであつた。
「思はず寝過してしまつたよ。仁王様の掌が、恰度僕の胸先まで伸びてゐる、九時半だな。――雪ちやん、今日から俺は、平気で、炉端へ出て飯を喰ふことにするよ。もう、人の眼を避けるといふ必要を感じなくなつたから――そして、また暫く、机の前の営みは打ち絶つて、いろ/\な運動をしなければならなくなつたから――どれ、一つ顔でも洗ひに出掛けるとしたいが、お前の手は空いてゐるかね?」
「いつもの通り、今頃ならば――もう、朝の仕事が終へて、お昼まではあたしの時間ですもの――さあ、お伴しませう。さつき雉の声をきゝましたよ。」
「今日こそ手なみを見せてやらうかね。」
 私はお雪が持つて来たコツプの水を一息に呑んで起ちあがるのであつた。
 裏口から深い櫟林を抜けて、沢へ降りて私は朝の嗽ひをするのが習慣だつたが、沢までは凡そ三四丁の道程があるので、いつも私は鉄砲を携へて出掛けるのであつた。
 いつもならば裏口からの出入でも店先に人影の絶へたところをお雪に見とゞけさせて、私は仇打ちの浪人者のやうに人眼を忍んでゐたが、すつかり態度を改めて、花模様のついたタオルを襟巻《シヨール》のやうに首に巻きつけながら鉄砲をとりあげると、
「おばあさん――これこそたとへの通り朝飯前に獲物をぶらさげて来るから、ロースの用意をしておいてお呉れ。」
 などゝ云ひながら、洗面の道具や、気紛れなハーモニカや一組のトランプなど入つてゐるズツクのバケツを携へたお雪を従へて、私は陽が極くまばらに散つてゐる朝の林の中へ靴音高く駆け込んだ。私は鉄砲は持つてゐるものゝ、これまで一度も獲物を打ち落した経験はなかつた。――たゞ、梢を目がけて、虚砲の音を轟ろかせては、いん/\と谿をわたつて打ち響く山彦の夢に耳を傾けるのが、云はゞ私の朝の祈りであつたのだ。
「――打つては駄目ですよ。ほんとうにさつき雉を見たんだから……」
 お雪は、ゴムの長靴で朝露を含んだ歯朶を踏みながら私の後を追ふて来た。「お前がこれを持ちなさいな。そして、一度私に、それを貸して御覧……あツ!」
 とお雪は、息を殺したかと思ふと素早く私の腕から鉄砲をもぎとつた。
「居る/\!」
 そして彼女は、私を駆け抜けると行手の樅の大木の蔭に背をかゞめて身を忍ばせた。私は、妻が残して行つた橙色のジヤケツを着て、この朝の寒さも厭はず細く長く素足に長靴を穿いたお雪が凝つと獲物を狙つてゐる様子を、うしろから眺めてゐると、何とも得体の知れぬ、凡そ今迄感じもしなかつた胸を颯つと引き絞められる花やかな香気に打たれた。未だあたりには朝靄の煙りが水のやうに流れてゐる草の中に立つた彼女の姿が――その上着の明るい色彩が、ところ/″\に点々として梢から洩れ落ちてゐる陽だまりの一つのやうに、そして巨大な蝶々のやうに、凝つと羽根を休めてゐた。
 と彼女は、慌てゝ振り向きながら私をさしまねくと、更に繁みをくゞつて先へ進んだ。鳥が枝を渡つたのか、それとも照尺を縮めたのか――私には鳥の姿は見へなかつたが、何だか私は、厭に生真面目にてれ臭つたやうなあまりに能なし気な思ひで、よた/\と伴いて行くと、待つ間もなく、間一髪、発砲の音で私は、思はず、ドキツとして蛙のやうに飛びあがつた。
 また、振り返つた彼女の顔を瞥見すると青白い興奮の気色が見られた。――私は、或ひは私が未だ彼女が引金を引く間もない前に、飛びあがつたのではなからうか? その音で、鳥が逃げてしまつたのぢやなからうか、そしてお雪が憤つたのではなからうか? そんな臆病さに打たれたかと思ふと、いつか、もう彼女の姿は私の眼界から去つてゐて、繁みの彼方からさかんに私を呼ぶ声が起つた。
「わあい――獲れたよ。」
 お雪は鳥の脚を掴んで宙に打ち振つてゐた。さつぱり興奮してゐるわけではなかつた。それなのに私は、非常に興奮して、バケツを投げ出してその傍らへ駆け寄ると、
「やあ、偉い/\。素晴しい――」
 さう叫ぶと一処に、思はず娘を腕に載せて、激浪のやうにゆすつた。ほんとうに私は、相当の専門家でない限りそんな鳥などは打てるものではないとばかり思つてゐたので、酷く彼女の腕なみに驚嘆したのである。
 お雪は私があまり真心から感嘆しつゞけるので、すつかりあかくなつて――いつも私の食膳にのぼす鳥料理は悉く彼女自身が打つて来ることや、だが近頃私が朝な朝な出鱈目な空砲ばかり鳴らすので、次第に鳥共が森の奥へ奥へと逃げ去つて了ひ、仲々この辺には現れなくなつた由などを述べた。
「知らなかつたな、それは――。昨夜もたしか鳥の御馳走があつたぢやないか。」
「えゝあれ山鳥よ――谷の向ふ側へ行つて打つて来たのよ。」
「ひとりで……?」
 径の在所も知れぬ熊笹の崖である、流れの岩を飛んで胸突きの崖をよぢ登ると、国境の山々を見晴らす明るい芝の野原に出るが、私は何時かの春の蕨狩りに出掛けた時、崖を這ひ登りながら胆を冷したのを思ひ出して、銃を担いだ娘がひとりであれを登るさまは想像が困難だつた。
「あたり前だわ。」
 お雪は苦笑してゐた。「今朝だつて、もう、一度行つて来たのよ、霧が深くつて生憎不漁だつたけれど。ぢや、お店に時々ならんでゐる雉や山鳥は、皆なあたしが打つて来るんだと云つたら、何んなにお前は驚くだらう?」
「売つてゐる、あれ[#「あれ」に傍点]!」
 季節/\の川魚の干したのを藁づとにして軒先にぶらさげてあるのに並べて、いつも小鳥の束が商はれてゐるのを私は知つてゐる。
「そのお金がもう二十円もたまつてゐる。」
「――この鉄砲は勿論雪ちやんに進呈するけれど、僕が東京へ行つたら、もつと新式の軽いのを買つて、屹度送つてあげるよ。」
「何時東京へ行くの?」
「…………」
「新しい鉄砲なんて要らないや。――行つてはいけないよ。」
 ――沢に降りると、私はシヤツも下着も脱ぎ棄てた半裸体となつて、口を嗽ぎ顔を洗つてから、流れのまん中で巨大な牛が沐浴をしてゐるかのやうな姿の岩に飛び移ると、カルデアの蛮族の牧歌を高唱しながら勇ましい体操をはじめるのであつた。
 これらの山々の谷間を流れる三条の谿流が麓の村境ひに合して、あれらの舟を泛べる河となるのだ。
 私は、流れに向つて、つたへよや、かの窓に屯ろする人々に――
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涼風夜雨を吹き
蕭瑟として寒林を動かせり
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 などゝ歌つて、切りに復讐の体操を続けてゐたが、汀を眺めると、恰度寝椅子に似たかたちの石に鳥のやうにその身を横へて、私の体操の終るのを待つてゐるお雪が、水鏡に凝つと視入つてゐた。寝椅子の裾には深々として孔雀歯朶が、絨毯のやうに生ひ繁つてゐた。もう聞き飽きてゐるためか彼女は、私が次第/\に何んなに歌の調子を高めても、身動きもしなかつた。彼女は、さつきの獲物の羽毛を花びらのやうに水に浮べながら、もの思ひに耽つてゐるかのやうに見えた。
 そして私は、私の歌の絶え間にそつと耳をそばだてると、それは娘のうたふ声に違ひない――。
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With outstreched arms upon the shore she stood,
With tearful eye she gazed upon the flood,
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