と聞えた。――崖の上に私達の狼犬《ゼフアラス》が現れて、空に向つて口腔《くち》を開けてゐたが、やがて飼主を発見すると、ほんとうの狼のやうに猛々しく落葉を蹴散らせながら、汀を目がけて駈け降りた。
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Whose swelling tide now seemed as if't would sever
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 ――歌は続いてゐた。
「あれは、ダニューヴの花嫁の歌だ!」
 私は、今が今迄あの窓に向つて不断に身構へつゞけてゐた颯々たる剣舞の夢が、恰も「白雲去つて悠々たり」といふが如き風情で、静かに拭はれて行く和やかさを覚えた。
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きらめく水の戯れに娘《ベルタ》の影の浮ぶさま、流れよ、波よ、しばし彼女の面影を……
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 私は思はずその歌の続きを口吟みながら、反対の汀に飛び移ると、歯朶の群れのなかに咲いてゐた山水仙を祈つて、
「おうい――ベルタ!」
 と称んでしまつた。「投げるからうけとつて御覧……Those young flowerets there, shall form a braid for thy sunny hair; I yet will save one, if but one, soft smile reward me when it is done.」

     三

 纜綱が解かれると舟はゆる/\と降りはじめた。私はトランクに凭り掛つて、雲を眺めてゐた。舟の後先では雪太郎と雪二郎が、黙々として竿を操つてゐた。
「おゝ、お雪が来る――名残りを惜んで。」
 誰かゞ左う云ふので私は岸の方へ眼を向けると、明るい橙色の上着を着た娘が、流れに平行した畦道を山鳥のやうに飛んでゐた。
 汀の野花をひきちぎつては、切りに舟を目がけて投げてゐたが、そこまでもとゞかず花片は吹雪となつて水の上に散つてゐた。――飛びはねる毎に明るい翼がきらきらと陽に映えては、また草の中に姿をかくす……。
「あれは山鳥だよ、やはり……」
 と私は呟いだ。然し鳥は、私達に向つて切りと何か呼びかけてゐる。
「鳥だらうか、お雪だらうか。」
 私達は二三言云ひ争ふてゐたが、何故か私は、
「それならば――」
 と自信のありさうに唸つた。だが私は、それが鳥であらうとお雪であらうと頓着はなかつたが、無性に悲しくなつて、それならば試して見ようと点頭いて、
「一身軽舟と為る――」
 と胸を拡げて歌つた。すると二人の舟人が声をそろへて、
「落日西山の際――」
 と和した。そして私達が、そゞろに陶然として、
「常に帆影に随ひて去り
 遠く長天の勢ひに接す――」
 斯う高らかに合唱すると、私達の舟を追つて駆けつゞけてゐる鳥のやうな影が、綺麗な叫び声を挙げて空高く舞ひ上るのであつた。
「御覧、やはり山鳥ぢやないか!」
 私がわけもなく得意さうに云ふと、
「いゝえ、あの通り――お雪ですよ。」
 二人は更に強情を張るのであつた。
 すると舟が柳の木蔭を回つた頃から急に勢ひを益して流れはじめた。私はよろよろとして舟ばたに凭りかゝりながら、後ろの空を見返へると柳の上を飛んでゐる山鳥が突然翼を翻して転落する有様であつた。
 私は思はず手に汗を握つて、悲鳴を挙げてしまつた。――と、私は帷の中で夢から醒めてゐた。
 うらうらとした朝なのだらう。脚もとの幕に仁王の見事に開かれた片手が鮮やかに揺曳してゐる。恰度、その影を壁飾りの位置にして、お雪は天井から吊した投網の破れ目を繕つてゐた。
 私は、ぼんやりと油絵のやうなお雪の姿を眺めた。
 間もなく街道の坂下の方角から物々しい法螺貝の音が響いたかと思ふと、がや/\といふ人々の喚き声が次第に仁王門を目がけて繰り込んで来るのであつた。――貝殻の音があたりの梢に陰々とこだまして、やがて行列は門をくゞりはじめた様子なので、そつと私は幕の間から見降すと、村長、助役、議員達をはじめとして矢の倉村の人々が、てんでんに赤襷白襷の見るも甲斐/\しいいでたちで、どつとばかりにおし寄せて来るのであつた。
「村の人達は此処に勢ぞろひをして、これから舟で竜巻村へ降りるんです。」
「一体、それは……」
 訊ねやうとした時に私は彼等がおし立てゝゐる幟の文字に「矢ノ倉仁王門撤廃反対運動」とか「古跡を保存すべし」とかその他、代議士候補桐渡一派を弾劾する様々な檄文を読みとつた。
 一隊はどや/\と私達の茶屋の前に集ると、爆竹の火花を挙げ、鬨の声を挙げて、天に沖する威気であつた。
「皆なが、先生を呼んでゐる――私達も出掛けるんですよ、私達の娘子軍《アマゾン》も……」
 お雪は、投網を畳んで登山袋に詰めはぢめた。みちみち、網を打つて、糧食を求めるのがアマゾンの役目の由であつた。
「それぢや恰で、去年の春の川遊び見たいぢやないか……」
「えゝ――毎年川遊びに事寄せて、竜巻村へ乗り込まうといふのが、私達の計画なんですつて!」
 さうしてゐる間にも、村人は次第に数を増して来て、店は時ならぬ繁昌を呈してゐるらしかつた。――雪太郎が酒樽の車を曳いて、門をくゞつて来るのが見へた。
「お雪は何うした、おういお雪――出陣の盃に酒を注いで呉れ。」村長の亢奮の声がした。「僕は――」、
 と私はベルタの手を執つて起きあがつた。
「朝の沐浴を済せて、直ぐ後を追ふから――と村長へ伝へて呉れないか。」
 私は、斯んな場合に、斯んなことを申し出る自分を、ベルタに対して恥らひを覚へたので、云ふと同時に彼女の不気嫌を期待したのだつたが、彼女は、不図私の顔を凝つと眺めたかと思ふと、投網の袋を背につけたまゝ、私の胸の中に顔を伏せて、わけもなくうむ/\と点頭いてゐた。その時、私の眼底には、あの竜巻村の、あの窓の下を、矢のやうに降つて行く一艘の小舟が映つてゐた。小舟では、鉄砲を抱へた私と、網を携へたベルタが肩を組んで「白雲」の歌をうたつてゐた。
 仁王の腕の影が、私達の脚もとまで伸びてゐた。その影の中に寝転んで、外の騒ぎに耳を傾けてゐると、私はやがて、遠くこの地上を離れて、今や私のローマンスの世界に到達したかのやうな鮮やかな夢心地に陶然としてゐた。
 ――私が書かうと試みてゐる物語の冒頭は、出陣の首途にあたつて恋人との別離を惜む勇士の姿であつたが、はからずも、その空想が眼の先の影の中に吾身をもつて髣髴として来た。その一節を私は「ダニューヴの花嫁」と題することに決めて、仁王の影の中から身支度をとゝのへて、やをら立ちあがつた。



底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「日本国民 第一巻第四号」日本国民社
   1932(昭和7)年8月1日発行
初出:「日本国民 第一巻第四号」日本国民社
   1932(昭和7)年8月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2009年12月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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