感嘆の舌を巻いてゐるんですよ。」
「あまり、傍から兎や角云ふと、朗らかなインスピレイシヨンが消えてしまつて、元の部屋へ戻つて寝てしまふより他に始末がつかなくなるかも知れないよ。」
「やツ、それは大変だ。……然し、その路金の工面は?」
「煩いな。それも矢の倉にあるんだよ。」
と私は眉をひそめた。――そして私が、再び瞑想的な面持ちで静かに眼をつむると、彼等は、口々に、口のうちで、
「叱ツ、静かに/\!」
「あぶねえ瀬戸ぎわだぞ!」
「ひや/\させるねえ!」
などゝ呟きながら、抜きあし、差しあしでその場を立ち去つた。
そつと私が薄眼を開いて見ると、三人の男が薄氷を踏むやうな真面目な滑稽な脚どりで、こそこそと葦をわけながら汀を離れると、ブラボウ! と叫ぶが如く翼を拡げて、まつしぐらに丘を駈け昇つて行つた。
……舟が、流れのまゝに大きく迂回して、木立の蔭にかくれようとする角に差しかゝつた時、私が彼方の丘を振り返つて見ると、さつき慌てゝ閉められたあの家の窓から、幾人もの悪人が重なり合つて、切りと帽子やハンカチを打ち振りながら、恰も出陣の首途についた荒武者との別れを惜しんでゐるかの模様であつた。
二
「祝入営」の幟の中の私は、昼となく夜となく小さな古ぼけた経机の前で、鈍重な眼を据えてゐたが、言葉に変へるべく未だ脳裏の猛々しい情熱の渦巻きが余りに生々し過ぎるのを感じた。換言するならば、篇中に活躍すべき多くの登場人物を扱ふべき私の態度に、作者としての襟度と夢の不足を知つた。――続いて未だ少くとも二三ヶ月の「オーミング」の要を私は覚えた。
朝、目が醒めると私の脚もとから胸先へかけて麗らかな陽が射してゐるかと思ふと、頭上の帷《まく》に大臼にも増した仁王の頭《かしら》が、くつきりと映つてゐることがある。また陽《ひかり》の加減に依つては大蛇が雲を呼んだやうに見える仁王の腕の影が、帷の一方から天井に抜けて駆け登つてゐることもあるし、脚もとのスクリーンに、ぱつと開かれた仁王の掌が、小さな私をその中に一と掴みにしてしまふ勢ひで迫つてゐるのに仰天させられることもあつた。私は時計などは持つてゐなかつたが、それらの仁王の影の部分的位置の具合で、誤りなく午前の時間を云ひ当てることが出来るのであつた。
私は目を醒ますと、先づ呼鈴の代用として使つてゐる枕もとの木魚を叩くのであつた。
「思はず寝過してしまつたよ。仁王様の掌が、恰度僕の胸先まで伸びてゐる、九時半だな。――雪ちやん、今日から俺は、平気で、炉端へ出て飯を喰ふことにするよ。もう、人の眼を避けるといふ必要を感じなくなつたから――そして、また暫く、机の前の営みは打ち絶つて、いろ/\な運動をしなければならなくなつたから――どれ、一つ顔でも洗ひに出掛けるとしたいが、お前の手は空いてゐるかね?」
「いつもの通り、今頃ならば――もう、朝の仕事が終へて、お昼まではあたしの時間ですもの――さあ、お伴しませう。さつき雉の声をきゝましたよ。」
「今日こそ手なみを見せてやらうかね。」
私はお雪が持つて来たコツプの水を一息に呑んで起ちあがるのであつた。
裏口から深い櫟林を抜けて、沢へ降りて私は朝の嗽ひをするのが習慣だつたが、沢までは凡そ三四丁の道程があるので、いつも私は鉄砲を携へて出掛けるのであつた。
いつもならば裏口からの出入でも店先に人影の絶へたところをお雪に見とゞけさせて、私は仇打ちの浪人者のやうに人眼を忍んでゐたが、すつかり態度を改めて、花模様のついたタオルを襟巻《シヨール》のやうに首に巻きつけながら鉄砲をとりあげると、
「おばあさん――これこそたとへの通り朝飯前に獲物をぶらさげて来るから、ロースの用意をしておいてお呉れ。」
などゝ云ひながら、洗面の道具や、気紛れなハーモニカや一組のトランプなど入つてゐるズツクのバケツを携へたお雪を従へて、私は陽が極くまばらに散つてゐる朝の林の中へ靴音高く駆け込んだ。私は鉄砲は持つてゐるものゝ、これまで一度も獲物を打ち落した経験はなかつた。――たゞ、梢を目がけて、虚砲の音を轟ろかせては、いん/\と谿をわたつて打ち響く山彦の夢に耳を傾けるのが、云はゞ私の朝の祈りであつたのだ。
「――打つては駄目ですよ。ほんとうにさつき雉を見たんだから……」
お雪は、ゴムの長靴で朝露を含んだ歯朶を踏みながら私の後を追ふて来た。「お前がこれを持ちなさいな。そして、一度私に、それを貸して御覧……あツ!」
とお雪は、息を殺したかと思ふと素早く私の腕から鉄砲をもぎとつた。
「居る/\!」
そして彼女は、私を駆け抜けると行手の樅の大木の蔭に背をかゞめて身を忍ばせた。私は、妻が残して行つた橙色のジヤケツを着て、この朝の寒さも厭はず細く長く素足に長靴を穿いたお雪が凝つと獲物を狙つてゐる様子
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