を、うしろから眺めてゐると、何とも得体の知れぬ、凡そ今迄感じもしなかつた胸を颯つと引き絞められる花やかな香気に打たれた。未だあたりには朝靄の煙りが水のやうに流れてゐる草の中に立つた彼女の姿が――その上着の明るい色彩が、ところ/″\に点々として梢から洩れ落ちてゐる陽だまりの一つのやうに、そして巨大な蝶々のやうに、凝つと羽根を休めてゐた。
 と彼女は、慌てゝ振り向きながら私をさしまねくと、更に繁みをくゞつて先へ進んだ。鳥が枝を渡つたのか、それとも照尺を縮めたのか――私には鳥の姿は見へなかつたが、何だか私は、厭に生真面目にてれ臭つたやうなあまりに能なし気な思ひで、よた/\と伴いて行くと、待つ間もなく、間一髪、発砲の音で私は、思はず、ドキツとして蛙のやうに飛びあがつた。
 また、振り返つた彼女の顔を瞥見すると青白い興奮の気色が見られた。――私は、或ひは私が未だ彼女が引金を引く間もない前に、飛びあがつたのではなからうか? その音で、鳥が逃げてしまつたのぢやなからうか、そしてお雪が憤つたのではなからうか? そんな臆病さに打たれたかと思ふと、いつか、もう彼女の姿は私の眼界から去つてゐて、繁みの彼方からさかんに私を呼ぶ声が起つた。
「わあい――獲れたよ。」
 お雪は鳥の脚を掴んで宙に打ち振つてゐた。さつぱり興奮してゐるわけではなかつた。それなのに私は、非常に興奮して、バケツを投げ出してその傍らへ駆け寄ると、
「やあ、偉い/\。素晴しい――」
 さう叫ぶと一処に、思はず娘を腕に載せて、激浪のやうにゆすつた。ほんとうに私は、相当の専門家でない限りそんな鳥などは打てるものではないとばかり思つてゐたので、酷く彼女の腕なみに驚嘆したのである。
 お雪は私があまり真心から感嘆しつゞけるので、すつかりあかくなつて――いつも私の食膳にのぼす鳥料理は悉く彼女自身が打つて来ることや、だが近頃私が朝な朝な出鱈目な空砲ばかり鳴らすので、次第に鳥共が森の奥へ奥へと逃げ去つて了ひ、仲々この辺には現れなくなつた由などを述べた。
「知らなかつたな、それは――。昨夜もたしか鳥の御馳走があつたぢやないか。」
「えゝあれ山鳥よ――谷の向ふ側へ行つて打つて来たのよ。」
「ひとりで……?」
 径の在所も知れぬ熊笹の崖である、流れの岩を飛んで胸突きの崖をよぢ登ると、国境の山々を見晴らす明るい芝の野原に出るが、私は何時かの春の蕨狩りに出掛けた時、崖を這ひ登りながら胆を冷したのを思ひ出して、銃を担いだ娘がひとりであれを登るさまは想像が困難だつた。
「あたり前だわ。」
 お雪は苦笑してゐた。「今朝だつて、もう、一度行つて来たのよ、霧が深くつて生憎不漁だつたけれど。ぢや、お店に時々ならんでゐる雉や山鳥は、皆なあたしが打つて来るんだと云つたら、何んなにお前は驚くだらう?」
「売つてゐる、あれ[#「あれ」に傍点]!」
 季節/\の川魚の干したのを藁づとにして軒先にぶらさげてあるのに並べて、いつも小鳥の束が商はれてゐるのを私は知つてゐる。
「そのお金がもう二十円もたまつてゐる。」
「――この鉄砲は勿論雪ちやんに進呈するけれど、僕が東京へ行つたら、もつと新式の軽いのを買つて、屹度送つてあげるよ。」
「何時東京へ行くの?」
「…………」
「新しい鉄砲なんて要らないや。――行つてはいけないよ。」
 ――沢に降りると、私はシヤツも下着も脱ぎ棄てた半裸体となつて、口を嗽ぎ顔を洗つてから、流れのまん中で巨大な牛が沐浴をしてゐるかのやうな姿の岩に飛び移ると、カルデアの蛮族の牧歌を高唱しながら勇ましい体操をはじめるのであつた。
 これらの山々の谷間を流れる三条の谿流が麓の村境ひに合して、あれらの舟を泛べる河となるのだ。
 私は、流れに向つて、つたへよや、かの窓に屯ろする人々に――
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涼風夜雨を吹き
蕭瑟として寒林を動かせり
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 などゝ歌つて、切りに復讐の体操を続けてゐたが、汀を眺めると、恰度寝椅子に似たかたちの石に鳥のやうにその身を横へて、私の体操の終るのを待つてゐるお雪が、水鏡に凝つと視入つてゐた。寝椅子の裾には深々として孔雀歯朶が、絨毯のやうに生ひ繁つてゐた。もう聞き飽きてゐるためか彼女は、私が次第/\に何んなに歌の調子を高めても、身動きもしなかつた。彼女は、さつきの獲物の羽毛を花びらのやうに水に浮べながら、もの思ひに耽つてゐるかのやうに見えた。
 そして私は、私の歌の絶え間にそつと耳をそばだてると、それは娘のうたふ声に違ひない――。
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With outstreched arms upon the shore she stood,
With tearful eye she gazed upon the flood,
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