ダイアナの馬
牧野信一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)切《しき》りに
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)ある日|伯楽《ばくらう》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)たてがみ[#「たてがみ」に傍点]に
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)それ/″\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一
二度つゞけて土曜日が雨だつた。――三木は、雨だつてむしろ出かけたかつたが、青木からの誘ひの手紙に――よく晴れたこの次の土曜日を待つ――といふ念がおしてあるので、二度の日曜日をつゞけて全く孤独の安息で暮した後だつたせいか、今朝起きて、麗らかな空を見出した時には、思はず、
「やあ、愉快だな!」
と、中学生の遠足の日の朝の心地を思ひ出しながら、つぶやいた。「それに、月曜日は祭日ではあるし……」
「久し振りに、青木さんとゆつくりお話が出来て結構なこと!」
妹がうらやましさうに、そんなことをいつた。
「どつちの青木……?」
三木は、いふまでもなく兄の青木と、そして三木の妹は、青木の妹の雪子とそれ/″\学生時代からの親しい友達であつた。
「だつて兄さん、そんなことをいつたつて、雪子さんと二人だけで話なんて出来る?」
「…………」
三木は、妹にそんなことをいはれて、そのやうな光景を想像すると、胸苦しいほどの切ない嬉しさに打たれるだけだつた。
明るい芝原の丘があつた――魚の泳いでゐるのが手にとる如くうかゞへるすみ渡つた小川が流れてゐる――蜜柑の山が翼をひろげて小さな村を胸のうちに抱いてゐる――もう、蜜柑が大分色づいた頃に違ひない――あの綺麗な蜜柑畑の丘へ昇つて行きながら、途中で振り返ると和やかな青い海原が池のやうに見降せる……。
三木は、青木の村を思ふと屹度蜜柑の季節が浮かびあがる――自分だけ馬に乗つて丘を昇つて行く先頭の雪子が、馬の背から腕を伸して蜜柑をもぎとつた。酸性の香気に鼻をつかれた! そんな極めて瑣細な印象が事更に鮮やかに三木の記憶に残つてゐる。
「おう! 酸ツぱい!」
雪子は仰山に両肩をすぼませて悲鳴をあげたかと思ふと、とても滑稽な表情をしてチラと後ろを振り返つた――その刹那の彼女の顔が、はつきりと三木の印象に残つてゐる。
「馬鹿だな、喰べたのか、お前は!」
青木が三木の背後から妹に呼びかけた。が、雪子は急に馬の脚並を速めて丘の頂上へ駆けてゐたので、背後の声は聞えなかつた。
間もなく雪子は、赤松の下に小さな祠のある丘の頂上に達すると、馬から飛び降りて、
「三木さんにも、あげるわ。うまく受けとつて御覧なさい。」
といつたかと思ふと、青黄色い蜜柑を一つ三木をめがけて高く悠やかに投げた。三木は、それを歩きながら片手でうまく受けとつた。
「喰べて御覧な。」
青木が傍らから、
「駄目だよ、喰べられるものか。」
と注意したが、三木は、関はず、皮をむいた。
「雪子は意地悪なんだよ。だまして、そんなものを他人に喰べさせて、酸ツぱがる顔を見ようとしてゐるんだよ。止せ/\。そんな青い蜜柑が喰べられるものか――あゝ俺は見たゞけでも歯が浮いてたまらない。」
青木は更に、そんな風にさへぎつてゐたが、三木は、
「平気だ。」
といつて、いきなり口のなかへほうり込んだ。
二
三木は、蜜柑の酸さに身ぶるひして、
「これは驚いた!」
ペツ! と、思はずほき出した。向方を見ると雪子が手を打つて笑つてゐた。
「ね、三木さん、あたしをつかまへて御覧なさいな。若し、つかまへたら、あたしの頬ツぺたを一つぎゆツとつねつても好いわ。そんな酸つぱい蜜柑を瞞して食べさせた罰として――」
「だつて、雪さんは馬に乗つて逃げ出すんだらう。それぢや、到底つかまる筈がありはしない。」
「そんなら、ドリアン(青木家の馬)を、あなたに貸してあげても好いわ、乗れる?」
「乗れる――」
と三木は返事してしまつた。彼は、生来馬をあまり好まぬ質だつたが、ドリアンなら大丈夫だらうと思つた。だが、それには余程の決心が必要だつた。
長閑な小春日和の野山である――酸つぱい蜜柑――戯れ――娘の頬をつねるといふ(決して、つねつたりするものか――その時は、その代りにその頬に接吻をしてもかまはぬであらう)目的で、勇敢なる青年が駿馬に打ちまたがつて、可憐な娘を追ひかけて行く――。
三木は、そんな戯れな情景が、何だかお伽噺か神話にでもあるやうな事件に思へたりして、酷く愉快になつたのである。
こんなに思つて見直すと、真上の丘の頂きに立つて、ドリアンのくつわをとりながら、此方に向つて呼びかけてゐる派手な黄色のジヤムパアを羽織つた靴下もはかぬ素足の靴で、そして短い乱脈な髪の毛が陽に映えてゐる様子の雪子の姿は、そのまゝ神話のヒロインでゝもあるかのやうに――空想家の三木の眼にうつつた。
「そいつは面白い。三木がドリアンに乗るのは愉快だ。おれが審判官にならう。」
と青木も賛成した。
三木は、両脚がかすかにふるへてゐるのに気づいた。彼は、常々どんな馬にも近寄れぬ質であつた。そのギヨロリとした大きな眼玉やたくましい鼻腔のフイゴのやうな息づかひ――などにたま/\接近して見ると、化物でも見たかのやうな無性なをのゝきに襲はれるのが常だつた。
そんな恐れと、娘のふくよかな頬の魅力と、そして薄ら甘いメルヘン気分の陶酔とが、しばらくの間眼の先で火花を散らしてゐたが、
「ぢや、ドリアンはこゝにおき放しにして行くわよ。こちらは自分の脚で逃げるんだから、余程先にスタートさせてもらはなければかなはないわ。」
雪子の声で、三木は改めて丘の上を振り仰ぐと、もうジヤムパアを脱ぎ捨てゝゐる娘の露はな腕と健やかな脚が、まぶしく映つた。――三木には、娘の姿が、侍女に上着や靴や弓矢をあづけて水浴のために谷間に降りて行く森の女神ダイアナの姿に映つた。ダイアナは、若者アクテオンが、その様子を眺めたのを、己れの処女性のために憤激のあまり甕の水を投げつけると、
「ダイアナの裸身を見たと、告げられるものなら人に告げて見よ。」
と叫んで、パンフアガス、ドシウス、シイロン等と称ぶ護衛の犬を若者に向けて飛びつかせた。
何故か、三木には、そんな怖ろしい神話が不図思ひ出された。
三
三木が丘の上に駆けあがつた時には、もう雪子の姿は見えなかつた。ドリアンが祠の前で草を食べてゐた。
「大変な競技がはじまつたものだな。俺は一体何方に味方したら好いんだらう。……が、まあ兎も角大いそぎで追ひかけないと、逃げ手は君、この山ぢうの路なら何んな草蔭の兎の道だつて弁へてゐるほどのラウデンデライン(森の娘)なんだから、都から来た猟人は忽ちのうちに見失つてしまふぜ。――俺は、こゝで、見晴してゐることにしようよ、この世にも不思議な競走を……」
青木は、からかふやうな調子でそんなことをいひながら、ドリアンに近寄れないで変な身構へで立竦んでゐる三木のためにその轡をとつた。
三木は、腕で額の汗を拭ひ、上着を脱ぎ棄てると、眼をつむつて馬上の人となつた。そして彼は、胸の底で、
「死んでも関はない。アクテオンのやうに――」
と覚悟した。
「君は、そのまゝ逆ふことなしに乗つてさへゐればドリアンは、自分から進んで女主人の後を追うて行くに違ひないから、君はたゞ落ちないことだけに注意してゐれば好いだらうさ。」
青木は、そんな注意も与へた。
「いや、ドリアンなら自信があるよ。平気だ。この分では、全速力を出しても俺は立派な騎手がつとまりさうだよ。」
三木は、観念した後に、そんな自慢をいつて、即座に出発しようと手綱を振つたが、ドリアンは一向歩き出しもしないのであつた。木馬のやうに行手を眺めたまゝ、凝ツと立ちどまつてゐるだけだつた。
「ドウ、ドウ!」
三木は、威厳を含めた太い声で唸つたが更に利目はなかつた――三木は、焦れて、馬の腹を蹴つた。が、ドリアンは鈍い眼ばたきをしたゞけでなほも動かなかつた。
「まるで銅像のやうだ。君の顔も、そんな風に武張つたところは、仲々強さうに見えるな、たしかに軍人だぞ。」
青木が笑つたが、三木は聞えぬ風をして切《しき》りにスタートをあせつてゐるのであつたが、まるでドリアンは真の銅像に化したかのやうに動かなかつた。
「何うしたんだらう。ドリアンは気分でも悪いのかしら?」
三木は、困惑の色を露はにして情なささうに青木に訊ねた。
「女主人の口笛を聞かなければ動き出さないのだらう。ともかくドリアンは、雪子には、他人には想像しがたい範囲で慣れてゐるんだから、その眼前に主人がゐなくても、やはり主人の命を待つてゐるといふほどの忠実な馬なんだよ。」
「困つたな!」
三木は思はず歎息を洩して空を仰いだ。と、もう向方の小山のあたりへまでも達した時分である筈の雪子は、直ぐ傍らの樹蔭に隠れてゐたのであつた。彼女は、三木に気づかれぬやうに息を殺して、そちらを目がけて堅い蜜柑を力一杯投げつけた。それはドリアンの胴腹にあたつた。――すると馬は軽いいななきをあげて、矢庭に丘を駆け降りはじめた。三木は、がくりとして思はずドリアンのたてがみ[#「たてがみ」に傍点]にしがみついた。
四
ドリアンは、悠やかなうねりを持つた坂道を、下の桑畑までまつしぐらに駆け降りた。そして煙草畑の端を大きく迂回した。
三木は、さつぱりわけがわからなかつた。まるで疾走中に運転手が滑り落ちてしまつた機関車にでも乗つてゐるかのやうな怖ろしい不安に戦きながら、ドリアンの背中に吸ひついてゐた。
だが三木は、丘の上で眺めてゐる青木は、おれが雪子の姿を見出して、それを追ひかけてゐる――と思ひ、更に、仲々大胆な騎手だ! と感歎してゐるだらう――などといふ勝手な得意さを抱いたりしてゐた。
それにしても、何と速かに走るドリアンであることよ、若しや気でも狂ふたのではなからうか?
「――と、すると、おれは救ひを呼ばなければならないが……」
それとも行手に雪子の姿が現れてゐるのかな? そんなら、この勢ひでは忽ち追ひついてしまふだらう――三木は、かうも思つて怖る怖るたてがみ[#「たてがみ」に傍点]の間から前方をすかして見たが、雪子の姿どころか、煙草畑が荒れ狂ふ濤のやうに映るだけで、探し索める隙などは決して得られぬ。
ドリアンが駆ける以上雪子はその行手に居るに違ひないのだ、間もなく追ひつくであらう……。
三木は、かう確信して、ドリアンの駆けるがまゝに任せて、自分は息を殺してその背中に吸ひついてゐた。そして、怖れを忘れるために、雪子に追ひついた時の幸福感ばかりを仔細に想像した。――あたりは一面の煙草畑であつた。丈よりも高い煙草の幹は、団扇のやうな葉を拡げてゐるから、若しこの辺で雪子をつかまへることが出来たら、その頬に熱い接吻を寄せたにしても、丘の上の審判官に見つかることもないだらう。雪子は、それを何んな風に享けるであらうか?
三木は、たてがみ[#「たてがみ」に傍点]の中に顔を埋めて、雪子との結婚を空想した。――ドリアンは煙草畑を一周すると再び丘へ向つて、昇りはじめてゐた。
丘の上から口笛の音が鳴り渡つてゐた。不図ドリアンが坂の中途で脚を止めた。
「三木さん――」
雪子の声で三木が顔をあげて見ると、はじめの丘の上に青木と並んで、ちやんと雪子が立つてゐた。そして、二人は、さも/\気の毒さうに微笑んでゐた。
「何時の間にか、そんなところに戻つてゐたな。よし、今行つてつかまへてやるよ。」
三木は虚勢を示した。
「あたし、はじめからこゝにゐて、ドリアンに合図をしてゐたのよ。こゝから下まで充分声がとゞくから、ドリアンは全くあたしの自由だつたのよ。気がつかなかつたの、三木さんは?」
三木は無念だつたが何うすることも出来ずあかくなり、そのまゝ丘の上まで進まうとすると、またドリアンは彼の手綱では動かないのだ。――と雪子が、口笛を鳴らし、手まねきを
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