示すと、ドリアンは一ト息に駆けあがつた。
「あゝ、喉が乾いた。蜜柑を食べてやれ。」
三木は、つまらなさうに呟き、酸つぱい蜜柑を我むしやらに頬ばつた。
五
今年も、もう蜜柑の季節であつた。三木は、一年前の、あの時の、あんな愚かし気な事件を思ひ出して、苦笑した。
二時間あまりの汽車で行かれるほどの近くにゐながら、どうして一年も訪れなかつたのだらう――雪子は、ちよい/\上京して此方の妹を訪れてゐるさうだが、自分はいつも勤めに出てゐる留守中で、考へて見ると、あのドリアン騒ぎ以来一度も会つてゐないのだ……。
さう思ふと三木には、あの時ダイアナを連想した雪子の、その他の姿は想像することも出来なかつた。あの荒々しく颯爽たる雪子の印象だけが、写真のやうにはつきり残つてゐた。
この頃三木は馬に相当の自信を持つことが出来た。あの時の失敗で彼は奮起して、東京に戻るがいなや郊外の乗馬倶楽部に入会して相当の練習を経てゐたから、それも青木達に誇りたかつた。
三木は時計ばかりを気にしながら漸く一日の会社務めを終へて、汽車に乗つた。N駅に着く三十分も前に完全に日が暮れて、夜釣り漁火が窓から眺められた。
N駅には青木が待つてゐた。青木は三木の顔を見ると同時に、
「雪子の奴は、夕方までに帰るといつて東京に出かけたのにまだ帰らない。あいつはこの頃おしやれで仕方がないよ。」といつた。
「ぢや、停車場の前で次の汽車を待たう。」
「ドリアンをこの頃は馬車馬にしてしまつてね、今も彼処に伴れて来てゐるよ。」
青木か指差した方を三木が見ると、軽さうな二輪車に、ドリアンがおとなしくつながれてゐた。――此処から青木の村までは、小川に沿うた寂しい街道をおよそ三哩もさかのぼらなければならなかつた。
二人は駅前のカフエーで、雪子を待つことにした。彼等は、互がしばらく会はぬ間に相当の飲酒家になつてゐることを笑ひながら、洋酒のグラスを挙げた。三木は、小説作家である青木の近頃の作品を様々な方面から賞揚した。
「ドリアンを売るといふ話があつたが、あれはほんたうなのか?」
「無論ほんたうなんだ。ところがね、新しい飼主のところから彼女は、何時の間にか雪子の許に戻つて来てしまふんだよ。飼主が怒つて、破談を申込んで来たのだけれど……」
「その買手は、村長の息子か?」
「うむ、雪子が最も嫌つてゐる……」
といひかけて何故か青木は、その話頭を転じてしまつた。――。
「俺も近いうちに東京へ移りたいと思つてゐるよ。そして、雪子と二人で小さな家でも借りて学生々活の続き見たいな生活に入らなければ居られなくなるかも知れないのだ。」
「それあ反対だ。」
と三木は叫んだ。「君の仕事は是非この田舎で相当のところまで完成して欲しいな。」
「さうかね。」
青木は何時も素直であつた。
「俺は、何処だつて関はないが、雪子が……」
その時次の汽車が到着したので二人は会話を中断して、外へ出た。――と何時の間にか青木は、思ひの外酔つてゐて、三木の肩に支へられでもしないと脚もとが怪しいほどであつた。三木は感傷的な声を挙げて、
「青木、どうしたんだい。しつかりしろよ!」
などゝ口走つた。
六
ドリアンの売買についての挿話――村長の息子のうはさ――青木の沈んだ表情……。
三木は、それ等のことで、雪子の身辺に不幸な結婚談が起つてゐるのだらう――と想像したが、青木が、それについては決して積極的に語らうとしないので、三木も遠慮した。
改札口の傍らに立つて二人は雪子の出て来るのを待つた。
「夜になるとバスもタキシーもなくなるので、俺は何時の時でも斯うして妹を迎へに来なければならないんだよ。」
「此処から君の村までの道は、然し、馬車でドライヴするのが最も適当な感じだな、あの景色の中を馬車でのろ/\と往復するのは至極ロマン的で、何時も俺は、それが此処に来ての楽しみの一つだよ。」
「常習者にはさつぱり面白くもないが……」
青木はいひかけて、
「何だ、厭にのろ/\とやつて来るぢやないか、おい、雪子!」
と声をかけた。
すると改札口の四五間先の処で、純白の半オーバを着た、歩き振りの極めてスマートな婦人が、青木の声に応じて腕をあげながら駆けよつて来た。
三木は、眼近くなつても、それが雪子とは思へぬ程であつた。この洋装の婦人なら、列車を降りて来る時から気づいてゐたが――
「しばらく……」
雪子は、こゝろもち顔をあからめて三木に挨拶した。
「すつかり見違へてしまつた!」
三木は、雪子の念入りにブラツシをあてられた睫毛が濡れたやうに沾んでゐるのを見た。西洋風の淡白の化粧が、淡白に見ゆるがために却つて技巧的な念が施されてゐるのを見た。外套の襟から窺はれる露はな胸に、粋な誕生石の胸飾りが見えた。
三木は、雪子がこんな立派な婦人になつてゐたのも知らずに、あんな子供らしい追想に耽り、また今日も訪れたならば、いつかのやうに野山へ出かけて共々に飛び廻らう――などゝ思つてゐた自分の考へが、とても無礼なことに思はれた。
どうして/\、これでは、とても頬などに指先だつて触れることは出来ない――そんなことを三木は突差の間に思ふと、突然奇妙な嫉妬感に襲はれた。
「俺は変に酔つてしまつたよ。家へ帰つてから、ゆつくり話すことにして、それまで馬車の中で眠るぜ。」
青木は、さういふと毛布をかむつて馬車の後ろの席にごろりと横になつてしまつた。
「チエツ!」
雪子は舌を鳴した。「気どつたまゝ帰らうと思つたら、御者にさせられるのか! 三木さんはこの頃馬は慣れて?」
「去年だつたかしら――雪子さんの為に酷い目に会つたのは――あれから、口惜しまぎれに乗馬倶楽部などに入つたので、少くとも馬に対する恐怖だけはなくなつた。」
「ぢや御者になつてね。」
「鞭はシートの下に入つてゐる?」
「鞭なんぞ使つてはいけないのよ。――可哀さうぢやないの、ドリアンが――。そんなら鞭の役目で、あたしも御者台に並ぶわ。」
三木が手綱をとつた傍らに雪子が並び、靴の先で軽く雪子が床を打つと、馬車は速かに動き出した。
七
伴れてつても伴れてつてもドリアンは村長の厩から逃げ出してしまふといふ話ではないか、その話を聞いて自分は何だか酷く愉快だつた――三木が、その話をすると雪子は、いきなり、
「それはね、あたしの結婚のことなのよ。」
と如何にも不平さうに呟いた。
三木は、想像してゐたことだつたから左程驚きもしなかつた筈なのだが、
「結婚だつて!」
と思はず訊ね返した自分の声が酷く慌てゝ調子高であつたのに気づいた。
馬車は月夜の街道を適度の速さで、小川に沿うて進んでゐた。――時々二三人伴れの若者に出遇ふと大概向方から、
「今、お帰りですか、お嬢さん。」
などゝ声をかけた。
「えゝ、村長の息子なんだけれど――とても、それが、あたしの一番嫌ひな――といふより一番軽蔑してゐる古い型の不良青年なのよ。」
雪子の話によると、青木の亡父時代の村長家との共同事業のための負債が残つてゐるのださうであつた。そして雪子が縁談を断ると、そんな負債に関することで様々な恩を着せるのであつた。
「あたし、あまり馬鹿々々しいんで、少々意地悪になつてやつたのよ。で――そんな御恩があるんならお断りするわけにはゆきませんわね、たゞあたしは未だ自分にはそんな話は早いと考へてお断りしてゐたゞけなんですけれど――あたしは、そんなことをいつて息子の顔を凝つと見てやつたのよ。そしたらね、息子の奴ツたら、とても真面目な顔をして――(僕と君の間で――)だつて! 何が、僕と君だ! とあたしは疳癪を怺へて神妙にしてゐると――(そんな水臭い話は必要ないでせう)――なんて、済して弁士の声色見たいなことをいふのよ。あたし噴き出したくなるのを、やつとこらへてゐたけれど……。さう/\丁度、この辺のところだつたわ、矢ツ張りあたしがあの汽車で東京から帰つて来ると、何うして知つたのか聞きもしなかつたけれど、息子はドリアンの馬車でちやんと迎へに来てゐたの――。……その時、もう少しで彼奴にキツスされてしまふところだつたわよ。」
「キツスだつて! そして、何うして逃れたの?」
三木は胸をふるはせて問ひ返した。
「それがね、ハズミつて随分怖ろしいものだわ、あんまりその偶然の出来事があざやか過ぎて芝居見たいだけれど……息子は前後のわきまへもなく一途に昂奮してゐたらしく、矢庭にあたしの胸にのしかゝつて来たのよ、つまり、この座席で斯うしてゐて――その時あたしが突然後ろにさつと身を引くと、その途端、男がワツ! と叫んだかと思ふと、あたしの胸の先を素通りして、そこの……」
雪子は傍らの流れを指ざして、
「川の中へ、真ツさかさまに飛び込んでしまつたぢやないの! バツシヤンと、暗闇の中にとても凄まじい水音をたゝ――」
といひ終ると、ヒユウツと口笛を鳴らして馬車の速度を速めた。
三木は、光りにすかして車の傍らを見降すと、真に轍の真下が月の光りにキラ/\と光つてゐる相当の探さを持つらしい小川であつた。
八
全速力かと思はれるほどの速さで馬車は小川のふちを駆けてゐた。
「この倍もの速力で、あたしは後ろも見ずに逃げ出したわ。」
雪子の話によると、それから間もなく弁護士や執達吏などが繁々と青木家の門を出入するやうになつた。
ある日|伯楽《ばくらう》のやうな男が二人づれで、青木家の厩の前で切りにドリアンの品定めをしてゐるので、雪子は不快に思つて訊ねると、
「あんたは御存知ないんですか、ドリアンを受とりに来たんですよ、村長さんの御いひつけで――」
と空々しくいひ放つた。
「ぢや、村長の家に、ドリアンは買はれたといふわけね。」
「勿論ですよ。」
「誰から買つたの?」
「お嬢さんは呑気ですな。誰からも何もあつたわけのものぢやありませんよ。つまり、あなたのお父さんからさ、ハツハツハ……買つたといふよりは、つまり貸金の利息の、ほんの申しわけに――といふ位のところさ。」
「勝手にするが好いわ。」
雪子は憤《む》つとして、自分の部屋に引きあげて、窓から様子を見てゐた。
伯楽が、ドリアンの手綱を引いて門を出て行かうとした時雪子は、吾を忘れて、常々から、ドリアンにだけ通じる意味の最も鋭い口笛を鳴した。――すると、ドリアンは、気たゝましい叫びを発して、突然後ろ脚で立ちあがつた。それを見た伯楽は眼の色をかへて、暴れ馬を取りおさへにかゝつたが、馬のたゞならぬ気合におそれをなして(馬は二人の男に蹄をあげて飛びかゝりさうな勢ひを示した。そして、あべこべに伯楽に向つて追ひかけさうになつた。)一目散に遁走してしまつた。
が、翌朝雪子が厩に行つて見るとドリアンの姿が見えないのである。しかし雪子は、自信があつたから、落着いて、珍しく乗馬服に身をかためた上で、鞭の先で長靴をたゝきながら散歩に出かけて見た。雪子はむしろ今度は愉快であつた。
街道に出て不図行手を見ると、村長と息子が馬車に乗つて朝霧を衝いて走つてゐた。後ろ姿であるが雪子には、一ト目でそれがドリアンであることも解つた。雪子は靴音を忍ばせて馬車の後を追つた。
村長と息子は仲睦まじく肩を並べて隣町の方へ赴くらしかつた。
「村長さん、お早う――」
雪子はかう背後から声をかけた。同時に馬車はピタリと止つた。
「雪さん!」
村長と息子は同時に、雪子に同乗をすゝめた。何も彼も知らぬ気な素振りで――。
「あんたに是非買つてあげたいものがあるんだがな、一緒に乗つて町へ行かないかね。」
「お父さんがね、君に指輪と首飾りを買つてやらうといふんだよ。実は、それを買ふために今朝二人で出かけたところなんだよ。恰度好いから一緒に行かう。」
村長と息子はこも/″\甘言を用ひて雪子の同行をすゝめるのであつた。
「この間の晩のダイビングは面白かつた?」
あまり息子の態度が白々しいので雪子は、斯んなことでも訊いてやらうかしら――などゝ思つた。
九
――しかし雪子は、いふ
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