までもなく同行を辞退した。
「ちよつとそこまで散歩に出るといつて来たのですから――それに斯んな格好で来ましたのは、川向ひの親類へ行つて馬を借りて来るつもりでしたの、ドリアンなんて、あたしもう飽きてしまつたから、今度は叔父さんのうちの……」
 雪子は、皮肉をいつてゐるつもりだつた。そして、出来るだけ恬淡さを装うた明るい微笑で述べてゐたのであるが、
「ドリアンなんて、もう――」などゝいつて見ると、急に堪まらない悲しさが込みあげて来て喉がつまつた。
「さよなら――」とだけいひ棄てると慌てゝ踵を回らして後戻りした。暫くの間、半ば無意識で駆けてゐたが、背後から切りと、
「おーい、雪さん、待つて呉れ。」
「こつちはお前については行かれないんだよ。他に急ぎの用だつてあるんだよ――」
「ドリアンの向きを換へて呉れ! 困るぢやないか、おーい、おーい!」
 などゝ叫ぶ声がするので、振り返つて見ると、村長と息子を乗せたまゝドリアンはちやんと馬車の方向をこつちに換へて、雪子が歩めば歩み、駆ければ駆けながら従順について来るのであつた。
 雪子は、悲しさと嬉しさに胸が一杯だつた。ドリアンだけならば、ドリアンの顔にとりすがつて泣きたかつた。――と、雪子の頬には止め度もない涙がこぼれ出してゐた。――雪子は一散に駆け出した。
 馬車も一散に駆け出した。
「おーい、待つてくれ……」
「飛び降りるから、ちよつと止めて呉れ。」
「汽車の時間におくれてしまふんだよウ。」
「危い/\、そんなに走られては堪まらない。――雪さアん、救《たす》けて呉れえ!」
 馬車の上では村長と息子が、半狂乱の態で、伸びあがつたり、尻もちをついたりしながら、夢中で雪子を呼び返してゐたが、雪子は益々全速力で駆け続けずには居られなかつた。
 静かな朝の街道に巻き起つた騒ぎを、野良の人々は丘の段々畑から見降して、村長父子が、雪子を手籠めにしようとして追跡してゐるのか? と見誤つた。そして、二三の若者は直ぐに青木家に注進した。
 鎮守の森を曲つて青木家の見ゆる橋の袂で雪子は、三人の若者と一緒に駆けつけて来た兄に出合つた。村長の馬車も直ぐと雪子の背後で止まつた。
 帽子なども途中で吹き飛ばされてしまつた村長は、激しい息切れで座席に突ツ伏したまゝ蟇のやうに丸い背中を伸縮させてゐるだけだつた。息子は、何と説明したら好いか? と当惑してゐるらしく、馬車から降りると暫くの間ぼんやりと空を仰いでゐたが、傍らの筧に気づくと、父親を救け降して水をすゝめた。
 誰も彼も無言であつた。
 雪子も、すつかり当惑してしまつて、説明の仕様もなくなつたので、そのまゝ吾家を目指して慌てゝ駆け出すと、ドリアンは正しく娘の影の如く従順に、空馬車の輪をガラ/\と音立てゝ、追つて行つた。
 それ以来村長家では、ドリアンの横領は断念したらしかつたが――。

     十

 そんな、滑稽味の多分に含まれた騒動の話を三木は、月あかりの夜道をごろ/\と呑気な音をたてゝ進んで行く馬車の上で雪子から聞かされたが、一向笑へなかつた。
「そのまゝ、この車と一緒にドリアンはあたしのものに帰つたのだけれど――この馬車は村長の家のものなのよ。馬車だけを引いて帰るのも具合が悪いと思つて、それツきり取返しにも来ないのよ。――その時、もう一つとても可笑しいことがあつたのよ。……これぢや仕方がないから一先づドリアンだけは返しておかう――と村長がいふので、あたし達はドリアンを馬車から脱して、ぢやどうぞ車をお持ち帰り下さい――といふと、(よし、ぢや僕が引つぱつて行く。)息子がさういつて、馬をつなぐ筈のところの梶棒を持ちあげたぢやないの、ところが、ひとりで、いくら力持ちだつて人間が馬の代りなんて出来はしない! 持ちあがりもしないぢやないの。(そんなら二人がゝりで引いて行かう。)と村長も業腹になつて、息子と片々宛で梶棒を持つて、引き出さうとしたんだけれど、到底駄目さ。――ハツハツハ……皆なで思はず笑ひ出してしまつたわ。するとね、村長父子は自尊心を傷けられたと見えて、真ツ赤になつて(今に見てゐろ、屹度ドリアン諸共取返して見せるから――。)と物凄い捨科白を残して引きあげたのよ。その時、あたしには聞えなかつたけれど(馬車と一緒に雪子も伴れて行くからそのつもりでゐるがいゝ!)なんていつてゐたんですツて……」
 雪子は堪まらなく可笑しさうに思ひ出し笑ひを繰返してゐたが、三木は、凝ツとドリアンの蹄の音に耳を傾けたまゝ、感歎に堪へぬが如き神妙な調子で、
「雪さんとドリアンは恰度ダイアナとその護衛卒のやうなものだ。」と唸つた。
「冗談ぢやない。……だけど、あたしが若し何処かへお嫁に行くとしたら何うしたつてドリアンはお伴になるだらうと思ふと……」
「とても都会生活は出来ないな。」
 三木は、寂しさうな声で呟いた。
「さうよ、ドリアンがゐなければ、あたし明日からでも東京へ行きたいわ。遊びに行っても[#「行っても」はママ]、直ぐに斯うやつて帰つて来るのはドリアンが気になるからなの……」
 三木は、胸のうちで呟いたつもりだつたのが不図口の先に浮んでゐた。
「ダイアナの護衛卒は、ダイアナの永遠の処女性を護るために……」
「え?」
「告げ得られるものなれば他人に告げて見よ、ダイアナの裸身を見たと――そんな言葉を思ひ出したんだけれど。」
「何うしたの、三木さん――。それ、芝居の科白なの?」
「ドリアンがゐる以上は、誰も雪さんを誘惑することは出来ないのか! と思つたら僕は何だか、とても愉快になつたよ、たつた今! 痛快なことぢやないか。」
 三木は、突然そんなことを大きな声でいひ放つと、
「飛ばさう/\!」
 といつて手綱を強く振つた。
「お嫁にゆくんなら厩のあるうちでなければならない。厩のあるのは村長の家より他はない。」
 雪子は、ふざけた歌でも歌ふやうにそんなことをいつた。

     十一

「一体俺は何うしたら好いんだらう。雪子のことを思ふと憂鬱にならずには居られない。」
 村にかうして愚図々々してゐれば結局雪子は村長家へ行かなければならなくなるかも知れない、雪子はドリアンに対してはそれ程の犠牲心位は持つてゐる……。
「が、それでは雪子が憐れ過ぎる。」
 麗らかな朝の陽を浴びながら三木と青木が蜜柑山へ散歩に出かける途中で、青木は変な苦笑を浮かべながら首を傾げた。
 丘は一帯に漸く色づきかゝつた蜜柑の樹に覆はれてゐた。三木は、一年前に訪れた時の風景とあたりが全く同じ色彩に映えてゐるのを深くなつかしんでゐた。
 三木は、青木のそれらの憂慮に対して何んな言葉を応へたら好いのか途方に暮れながら、それとなく腕を伸して蜜柑の実をもぎとつたりした。――三木は、厩のあるやうな家を自分が持てるか知ら? と思つたり、そんなことを考へる自分の勝手なケチな空想を嘲笑つたりしながらも、何うかして厩のある家を得たいものだ――などゝ夢見た。
「これは、あんまり馬鹿々々しい心配で他人には話せないんだが、どうも雪子の心持がはつきり俺には解つてゐるので、とても閉口するんだよ。」
「馬鹿々々しいどころか、深刻な事件ぢやないか。」
 三木は、吾を忘れて苦い蜜柑をかんだ。
「俺は、雪子が何うしても他国へ行かなければならないことになつて、いざ出立といふ場面を考へると、恰でギリシヤ劇にでもありさうな悲壮な情景が浮んで来るのだよ。」
 いひかけて青木は、深く呼吸を呑んだ。
 ……汽車の窓から雪子が半身を乗り出してゐる、汽車路に添つた街道を裸身のドリアンが駆けてゐる、汽車の速度に伴れてドリアンの速力も次第に速くなる……車輪の響と蹄の音と……。
「ドリアンは倒れるまで駆け続けるだらう……ドリアンが昏倒する様を妹は窓から認めるであらう……その時お前は、次の停車場で汽車を降りるか? と俺は、その話になると雪子に訊ねるのだ。無論降りる――と雪子は答へる――それで吾々の一身上に就いての相談は何も彼も頓挫してしまふのが常例なんだよ。想像でなくつてそれと同じ事件が、つい一ト月前にも起つた。昏倒したドリアンは雪子に介抱されると忽ち蘇生してしまつた……雪子はとう/\恋愛も犠牲にして、以来ドリアンと暮してゐる。」
「恋愛事件があつたの?」
「犠牲に出来るほどのものなんだから、プラトニツクなんだけれど……」
「恋人に会ひに行くために出立したんだね。」
「うむ、ところがドリアンが何うしても離れないんだ。逃げるやうにして出かけても雪子も雪子で、夜になると帰らずには居られない――何とも因果なことだよ。」
「恋人の名前は?」
 三木はせき込んで青木の眼を瞶めた。
「…………」
「その幸福な男といふのは?」
「幸福と思ふか、君は?」
 青木は熱い手で三木の手を執つて悲しさうに唸つた。「幸福と思へるんなら、馬位ゐのことであきらめてしまはれる位ゐに淡いプラトニツクの相手の名前を、君が、君自身と想像することは自由だよ。」

     十二

「俺達が自分達の話ばかりしてゐるので、雪さんは機嫌でも損じて何処かへ出かけてしまつたのだらうか、朝から見えないが――」
「いや、あいつは親爺が死んだ時でも天気さへ好ければドリアンを乗り廻して来ずには居られないといふほどの奴なんだよ。加《おま》けに競馬が近づいたので此頃ぢや晩まで競馬場で暮してゐる。」
「自分が騎手にでもなつて出るの――」
「競馬にはドリアンなんて出すわけではないが、練習の間だけは――。この山を越すと競馬場だから行つて見ようか。」
「よし、俺も馬を借りて、雪さんと競走でもして見よう。」
「それこそ、到底敵ふ筈はない。――騎手の連中でさへ彼奴には恐れてゐる位なんだから……」
 青木と三木は、主に雪子とドリアンを話題にしながら丘を越えて行つた。――後から青木の名を呼ぶ者があつたので、見ると、馬を伴れた村長の息子だつた。
「ドリアンの代りに、今度これを買つたんだよ。毎日馬場に練習に来てゐるんだが、ドリアンなんて敵ぢやないぜ。雪さんなんてとても羨ましがつてゐるよ。第一馬車を引かす馬とは比べものにならぬよ。」
 ガウンで覆はれてゐたから毛並は解らなかつたが、息子は得意気にそんなことをいひながら手綱を引いて行き過ぎて行つた。
 擂鉢型の盆地で、丘の上から見降す具合の馬場であつた。十頭ばかりの馬が馬場に出て切《しき》りに競争の練習中だつた。
「雪さんは居ないやうだね?」
 三木は双眼鏡を借りて見降してゐた。騎手も馬も丘から見ると玩具の大きさだつた。
「居ないのかしら?」
 青木も切りに探し索めた。やがて、
「あ、居る/\。村長の息子が、傍へ行つて何か話しかけてゐる、今の自慢の馬を示しながら――。彼は、自分の馬に雪子を乗せようとしてゐるぜ。」
「解らない、もう少し下へ降りて見よう。」
「海老茶のシヤツを着てゐるのが、雪子だよ。」
「鳥打帽子をかむつてゐる?」
「あいつ何時でもこゝに来る時にはあんな格好をしてゐるんだよ。女と見えるのが、困るからだつて――」
 海老茶の騎手は、息子の言葉に逆らつたらしく振り切つて、単独でスタートの練習に余念のない有様だつた。――競馬についてはほとんど知識のない三木だつたが、自由な疾走の具合や、動作のスマートな点があまりにきは立つてゐるので眼を見張らずには居られなかつた。他の騎手連も、彼女のオーミングアツプが始まると一斉にその方を見物してゐるのであつた。
「俺には何《ど》うしても、あれが雪さんだとは思はれない。第一、女と見えぬ。」
「此処からなら顔だつて解るがね――此方に向つて駆けて来るところを、眼鏡で好く見てみ給へ。尤も、普断の顔と奇妙にあいつは、変つてしまふんだよ、ドリアンを飛ばしてゐるとなると――。俺は実際あいつのあの境地だけは羨ましい――恍惚状態といふものゝ不思議を俺は、沁々感じさせられる。ドリアンの他に何もないといふのは無理もないと思はれる……」
 三木は、それでも、その騎手が雪子とは思はれなかつた。彼は、自分が厩のある家の主になつた空想の世界を覗く切なる想ひだけで、一心に望遠鏡を両眼におしあ
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング