ん、あたしをつかまへて御覧なさいな。若し、つかまへたら、あたしの頬ツぺたを一つぎゆツとつねつても好いわ。そんな酸つぱい蜜柑を瞞して食べさせた罰として――」
「だつて、雪さんは馬に乗つて逃げ出すんだらう。それぢや、到底つかまる筈がありはしない。」
「そんなら、ドリアン(青木家の馬)を、あなたに貸してあげても好いわ、乗れる?」
「乗れる――」
 と三木は返事してしまつた。彼は、生来馬をあまり好まぬ質だつたが、ドリアンなら大丈夫だらうと思つた。だが、それには余程の決心が必要だつた。
 長閑な小春日和の野山である――酸つぱい蜜柑――戯れ――娘の頬をつねるといふ(決して、つねつたりするものか――その時は、その代りにその頬に接吻をしてもかまはぬであらう)目的で、勇敢なる青年が駿馬に打ちまたがつて、可憐な娘を追ひかけて行く――。
 三木は、そんな戯れな情景が、何だかお伽噺か神話にでもあるやうな事件に思へたりして、酷く愉快になつたのである。
 こんなに思つて見直すと、真上の丘の頂きに立つて、ドリアンのくつわをとりながら、此方に向つて呼びかけてゐる派手な黄色のジヤムパアを羽織つた靴下もはかぬ素足の靴で、
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