アンの背中に吸ひついてゐた。
だが三木は、丘の上で眺めてゐる青木は、おれが雪子の姿を見出して、それを追ひかけてゐる――と思ひ、更に、仲々大胆な騎手だ! と感歎してゐるだらう――などといふ勝手な得意さを抱いたりしてゐた。
それにしても、何と速かに走るドリアンであることよ、若しや気でも狂ふたのではなからうか?
「――と、すると、おれは救ひを呼ばなければならないが……」
それとも行手に雪子の姿が現れてゐるのかな? そんなら、この勢ひでは忽ち追ひついてしまふだらう――三木は、かうも思つて怖る怖るたてがみ[#「たてがみ」に傍点]の間から前方をすかして見たが、雪子の姿どころか、煙草畑が荒れ狂ふ濤のやうに映るだけで、探し索める隙などは決して得られぬ。
ドリアンが駆ける以上雪子はその行手に居るに違ひないのだ、間もなく追ひつくであらう……。
三木は、かう確信して、ドリアンの駆けるがまゝに任せて、自分は息を殺してその背中に吸ひついてゐた。そして、怖れを忘れるために、雪子に追ひついた時の幸福感ばかりを仔細に想像した。――あたりは一面の煙草畑であつた。丈よりも高い煙草の幹は、団扇のやうな葉を拡げてゐるから、若しこの辺で雪子をつかまへることが出来たら、その頬に熱い接吻を寄せたにしても、丘の上の審判官に見つかることもないだらう。雪子は、それを何んな風に享けるであらうか?
三木は、たてがみ[#「たてがみ」に傍点]の中に顔を埋めて、雪子との結婚を空想した。――ドリアンは煙草畑を一周すると再び丘へ向つて、昇りはじめてゐた。
丘の上から口笛の音が鳴り渡つてゐた。不図ドリアンが坂の中途で脚を止めた。
「三木さん――」
雪子の声で三木が顔をあげて見ると、はじめの丘の上に青木と並んで、ちやんと雪子が立つてゐた。そして、二人は、さも/\気の毒さうに微笑んでゐた。
「何時の間にか、そんなところに戻つてゐたな。よし、今行つてつかまへてやるよ。」
三木は虚勢を示した。
「あたし、はじめからこゝにゐて、ドリアンに合図をしてゐたのよ。こゝから下まで充分声がとゞくから、ドリアンは全くあたしの自由だつたのよ。気がつかなかつたの、三木さんは?」
三木は無念だつたが何うすることも出来ずあかくなり、そのまゝ丘の上まで進まうとすると、またドリアンは彼の手綱では動かないのだ。――と雪子が、口笛を鳴らし、手まねきを示すと、ドリアンは一ト息に駆けあがつた。
「あゝ、喉が乾いた。蜜柑を食べてやれ。」
三木は、つまらなさうに呟き、酸つぱい蜜柑を我むしやらに頬ばつた。
五
今年も、もう蜜柑の季節であつた。三木は、一年前の、あの時の、あんな愚かし気な事件を思ひ出して、苦笑した。
二時間あまりの汽車で行かれるほどの近くにゐながら、どうして一年も訪れなかつたのだらう――雪子は、ちよい/\上京して此方の妹を訪れてゐるさうだが、自分はいつも勤めに出てゐる留守中で、考へて見ると、あのドリアン騒ぎ以来一度も会つてゐないのだ……。
さう思ふと三木には、あの時ダイアナを連想した雪子の、その他の姿は想像することも出来なかつた。あの荒々しく颯爽たる雪子の印象だけが、写真のやうにはつきり残つてゐた。
この頃三木は馬に相当の自信を持つことが出来た。あの時の失敗で彼は奮起して、東京に戻るがいなや郊外の乗馬倶楽部に入会して相当の練習を経てゐたから、それも青木達に誇りたかつた。
三木は時計ばかりを気にしながら漸く一日の会社務めを終へて、汽車に乗つた。N駅に着く三十分も前に完全に日が暮れて、夜釣り漁火が窓から眺められた。
N駅には青木が待つてゐた。青木は三木の顔を見ると同時に、
「雪子の奴は、夕方までに帰るといつて東京に出かけたのにまだ帰らない。あいつはこの頃おしやれで仕方がないよ。」といつた。
「ぢや、停車場の前で次の汽車を待たう。」
「ドリアンをこの頃は馬車馬にしてしまつてね、今も彼処に伴れて来てゐるよ。」
青木か指差した方を三木が見ると、軽さうな二輪車に、ドリアンがおとなしくつながれてゐた。――此処から青木の村までは、小川に沿うた寂しい街道をおよそ三哩もさかのぼらなければならなかつた。
二人は駅前のカフエーで、雪子を待つことにした。彼等は、互がしばらく会はぬ間に相当の飲酒家になつてゐることを笑ひながら、洋酒のグラスを挙げた。三木は、小説作家である青木の近頃の作品を様々な方面から賞揚した。
「ドリアンを売るといふ話があつたが、あれはほんたうなのか?」
「無論ほんたうなんだ。ところがね、新しい飼主のところから彼女は、何時の間にか雪子の許に戻つて来てしまふんだよ。飼主が怒つて、破談を申込んで来たのだけれど……」
「その買手は、村長の息子か?」
「うむ、雪子が最も嫌つてゐる……」
とい
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