そして短い乱脈な髪の毛が陽に映えてゐる様子の雪子の姿は、そのまゝ神話のヒロインでゝもあるかのやうに――空想家の三木の眼にうつつた。
「そいつは面白い。三木がドリアンに乗るのは愉快だ。おれが審判官にならう。」
と青木も賛成した。
三木は、両脚がかすかにふるへてゐるのに気づいた。彼は、常々どんな馬にも近寄れぬ質であつた。そのギヨロリとした大きな眼玉やたくましい鼻腔のフイゴのやうな息づかひ――などにたま/\接近して見ると、化物でも見たかのやうな無性なをのゝきに襲はれるのが常だつた。
そんな恐れと、娘のふくよかな頬の魅力と、そして薄ら甘いメルヘン気分の陶酔とが、しばらくの間眼の先で火花を散らしてゐたが、
「ぢや、ドリアンはこゝにおき放しにして行くわよ。こちらは自分の脚で逃げるんだから、余程先にスタートさせてもらはなければかなはないわ。」
雪子の声で、三木は改めて丘の上を振り仰ぐと、もうジヤムパアを脱ぎ捨てゝゐる娘の露はな腕と健やかな脚が、まぶしく映つた。――三木には、娘の姿が、侍女に上着や靴や弓矢をあづけて水浴のために谷間に降りて行く森の女神ダイアナの姿に映つた。ダイアナは、若者アクテオンが、その様子を眺めたのを、己れの処女性のために憤激のあまり甕の水を投げつけると、
「ダイアナの裸身を見たと、告げられるものなら人に告げて見よ。」
と叫んで、パンフアガス、ドシウス、シイロン等と称ぶ護衛の犬を若者に向けて飛びつかせた。
何故か、三木には、そんな怖ろしい神話が不図思ひ出された。
三
三木が丘の上に駆けあがつた時には、もう雪子の姿は見えなかつた。ドリアンが祠の前で草を食べてゐた。
「大変な競技がはじまつたものだな。俺は一体何方に味方したら好いんだらう。……が、まあ兎も角大いそぎで追ひかけないと、逃げ手は君、この山ぢうの路なら何んな草蔭の兎の道だつて弁へてゐるほどのラウデンデライン(森の娘)なんだから、都から来た猟人は忽ちのうちに見失つてしまふぜ。――俺は、こゝで、見晴してゐることにしようよ、この世にも不思議な競走を……」
青木は、からかふやうな調子でそんなことをいひながら、ドリアンに近寄れないで変な身構へで立竦んでゐる三木のためにその轡をとつた。
三木は、腕で額の汗を拭ひ、上着を脱ぎ棄てると、眼をつむつて馬上の人となつた。そして彼は、胸の底で、
「死んでも関はない。アクテオンのやうに――」
と覚悟した。
「君は、そのまゝ逆ふことなしに乗つてさへゐればドリアンは、自分から進んで女主人の後を追うて行くに違ひないから、君はたゞ落ちないことだけに注意してゐれば好いだらうさ。」
青木は、そんな注意も与へた。
「いや、ドリアンなら自信があるよ。平気だ。この分では、全速力を出しても俺は立派な騎手がつとまりさうだよ。」
三木は、観念した後に、そんな自慢をいつて、即座に出発しようと手綱を振つたが、ドリアンは一向歩き出しもしないのであつた。木馬のやうに行手を眺めたまゝ、凝ツと立ちどまつてゐるだけだつた。
「ドウ、ドウ!」
三木は、威厳を含めた太い声で唸つたが更に利目はなかつた――三木は、焦れて、馬の腹を蹴つた。が、ドリアンは鈍い眼ばたきをしたゞけでなほも動かなかつた。
「まるで銅像のやうだ。君の顔も、そんな風に武張つたところは、仲々強さうに見えるな、たしかに軍人だぞ。」
青木が笑つたが、三木は聞えぬ風をして切《しき》りにスタートをあせつてゐるのであつたが、まるでドリアンは真の銅像に化したかのやうに動かなかつた。
「何うしたんだらう。ドリアンは気分でも悪いのかしら?」
三木は、困惑の色を露はにして情なささうに青木に訊ねた。
「女主人の口笛を聞かなければ動き出さないのだらう。ともかくドリアンは、雪子には、他人には想像しがたい範囲で慣れてゐるんだから、その眼前に主人がゐなくても、やはり主人の命を待つてゐるといふほどの忠実な馬なんだよ。」
「困つたな!」
三木は思はず歎息を洩して空を仰いだ。と、もう向方の小山のあたりへまでも達した時分である筈の雪子は、直ぐ傍らの樹蔭に隠れてゐたのであつた。彼女は、三木に気づかれぬやうに息を殺して、そちらを目がけて堅い蜜柑を力一杯投げつけた。それはドリアンの胴腹にあたつた。――すると馬は軽いいななきをあげて、矢庭に丘を駆け降りはじめた。三木は、がくりとして思はずドリアンのたてがみ[#「たてがみ」に傍点]にしがみついた。
四
ドリアンは、悠やかなうねりを持つた坂道を、下の桑畑までまつしぐらに駆け降りた。そして煙草畑の端を大きく迂回した。
三木は、さつぱりわけがわからなかつた。まるで疾走中に運転手が滑り落ちてしまつた機関車にでも乗つてゐるかのやうな怖ろしい不安に戦きながら、ドリ
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