。兄貴が、それ以上気まり悪さうに、白けた。弟は此方に来る前手紙で、今小田原のK病院に入院してゐるが、未だに実家への帰参が許されないで閉口してゐる、親父や阿母は何でもないんだが、兄貴の奴がとても頑張つてゐて始末に終へない、親父は君も承知の通りあゝいふ優しい人で、在れども無きが如き存在だが、いんごうなのは兄貴だ。聞くところに依ると近頃では阿母が兄貴の前で涙を滾して、僕の帰参を懇願してゐるさうだ、容易に兄貴がウンと云はないさうだ。僕だつて兄貴を恨みはしない、再三の失策をしてゐるんだから――そんな意味のことを彼に伝へてゐた。だから彼は、その兄貴の前で慎ましくしてゐる弟を見て可笑しくなつた。
 だが彼は、宮田の家庭が羨しかつた。宮田と彼の家庭と比べれば、その長男の存在が、実に雲泥の差である。彼の家庭では、寧ろ彼の小さい弟の方が権力を認められてゐた。兄の宮田に比べて自分の方がより愚物であるとは思へない――彼は、そんな馬鹿気たことまで考へた。
「信ちやんの酒の飲み方は、何時までたつても書生の失恋式だね。」
 兄の宮田は、快活な調子で彼にそんな批評を浴せた。彼は、兄の宮田には古くから好意を持つてゐた。宮田の言葉は、凡て技巧的で野卑を衒つたが、それが如何にも朗らかで、クラリオネットで吹き鳴らす唱歌を聞く感がした。そしてその容貌や体格が彼の気に入つてゐた。繊細で、快活で、そして鹿の如く明るい涙を胸の底に蔵してゐた。弟の宮田が、彼に甘えて兄貴の悪口などを云ふと、彼は極力皮肉まじりの反対を唱へた。お前の方が余ツ程馬鹿だよ、と云はんばかりに――。
 斯ういふ風だから家庭に於てもあれ程の権力があるのか知ら――彼は、そんなに思つて一寸陰鬱になつた。「宮田に比べて、何と俺は愚図だらう、そして胸の底に憎い心を持つてゐる、澄んでゐない。」
 夜釣りの舟が遠い街のやうに庭から見降ろせた。
「良三、あそこにビール箱があつたね、あれを二つばかし持つて来ないか。」と兄の宮田は弟に命じた。
「あゝ。」と素直に弟は、ビール箱を運んだ。それを二つ庭の突鼻に据ゑて涼み台にした。
「こゝで酒を飲まうや。」
「だが。」と彼は逡巡して「こゝでは往来を見降ろして悪い気がするから、もう少し後ろにさげようや。」と云つた。弟の宮田は、軒先に電灯を釣るし、それにスタンドをつないで庭を明るくした。
「おいビール位ゐは飲めよ、ねえ兄貴それ位ゐ許してやれよ。」
 彼は、もう酔が廻つてそんなに云つた。それでも一寸兄は迷惑さうな顔をしたが、仕方がなささうに点頭いた。弟は、待ち構へてゐたらしく勝手へ走つてビール壜をさげて来た。彼は、誰にでもいゝから一寸これに類する威厳を示して見たいものだなどと思つた。
「おいおい、コップ位ゐ買つたらどうだい。」
 兄の宮田は、直ぐに気持を取り直して彼をからかつた。コップが一つもないので、コーヒー茶碗を弟が持つて来たのだ。
「何によらず僕は買物といふことが嫌ひでね。どういふわけか僕は物を買ふといふことが変に気恥しくつて――」
 彼は、気分家を衒ふやうに云つた。
「道理で細君が、うちの人はケチ[#「ケチ」に傍点]でやりきれないと云つて滾してゐたつけ。」
「僕があした海の帰りに買つて来てやらう。」と弟の宮田が云つた。兄貴は横を向いてゐたが突然、
「壜詰はうまくないから、ひとつ俺が酒屋へ行つてどんな酒があるか見て来る。」と云つて出かけた。間もなく、白タカの好いのがあるさうだから頼んで来たと云つて帰つて来た。
「こゝに涼み台を据ゑたのは理由があるんだよ。今晩のうちに選手達は小田原へ自働車で帰るんだつてさ。こゝで見張りをしてゐて、応援してやらうと思つてるんだよ。」
「君は何故帰らないんだ。」と彼は訊ねた。
「いや僕はあした汽船で帰るんだよ。あんな酷い崖道を通るんぢやとても怖しくて敵《かな》はない。ケイベンにしろ自働車にしろ、あれぢや間違ひのない方が不思議だ。」
「兄さんは泳ぎが達者だから船なら平気だらう。」と弟は媚を呈した。
「此間君の親父に往来で出遇つたよ。」
「……」彼は、ゾツとして、だがまさか宮田なんて何も知らないだらうと高を括つて、
「ふゝん。」と白々しく点頭いた。
「君のことを云つてゐたよ。」
「何と!」
 彼は、眼を円くした。
「いや……」と兄の宮田は、わざと意味あり気に笑つて「君も、何か失敗したのかね。」
 君も――と云つたので弟の方は一寸厭な顔をした。
「いや別に……」
「内容は知らないが、何だか馬鹿に憤慨してゐたよ。信の奴、信の奴、と何遍も云つてゐたぜ。」
「はゝアん!」と彼は、みんな知つてるからもう止して呉れといふ色を示した。
「が、脛囓りぢや何と云はれたつて頭はあがるめえ――」
 それはいくらか弟への厭味でもあるらしかつた。斯んな機会に日頃の鬱憤を、大いに洩してやらうか――さうも彼は思つたが、言葉が見つからなかつた。
「だが、君の親父近頃大分若返り振りを示してゐるさうぢやないか。」と兄の宮田は無造作に笑つた。彼は、息が詰つた。
 そんな話をしながらも、兄の宮田は、自働車の音がする毎に立ちあがつて、
「小田原! 小田原!」と叫んで見た。三四回無駄な骨折りをしてゐた。
 選手の自働車は、騒然たるエールを乗せて崖下の道にさしかゝつた。兄の宮田は躍りあがつて、
「小田原! 万歳! 万歳!」と叫んだ。それに伴れて弟の宮田も同じく声をそろへた。向方は走る一塊の騒音ばかしで、何の返答もなく直ぐ森の蔭に消えてしまつた。弟の宮田は実はそんな大声を発したくないのだが、兄貴があまり一生懸命なので傍観してゐるのは悪くでも思つて試みたらしく、その声は半分彼の方を意識にいれてテレてゐる見たいだつた。
 街から帰つて来た細君が、石段をあがつて来て生垣越しに彼の後姿を眺めて、
「薄暗いところに、そんな風に立つてゐると姿が何んにも見えない、背中があんまりくろいもので――何にも無い見たい!」と云つた。
 彼は、肌脱ぎで宮田達の後ろにぼんやり立つてゐたのだ。あまり手持ぶさたなので、無数の星が閃いてゐる空を見あげてゐたのだ。

[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]

 兄が帰ると、弟の宮田はホツとして、夕方になると嬉し気に酒を飲んだ。此間のビール箱が、あの儘庭に残つてゐるので、陽が照らないと昼間でもそれに腰かけて、よく彼はトランプに熱心な宮田の相手をした。
「今晩の御馳走は何です。」
 宮田は庭から、座敷で編物をしてゐる彼の細君に声をかけた。
「また牛肉ぢや厭?」
「牛肉だつて好いから、もう少し料理を施して呉れなけりや……」
「良ちやん、自分で料理したらいゝのに。」
 彼は、黙つて手にしたトランプの札を瞶めて居た。スペートのキングの顔を眺めてゐると、妙に父の顔が浮んだ。尤も彼の父は、鬚もないし、顔だちだつてあんなではなかつたが――彼がうつかりしてゐるうちに、宮田がスペートのジャックを棄てたので、彼はキングを降ろしマイナス十五点をしよはされた。
「親爺ぢや参つたらう。」と宮田は鼻を蠢めかせて笑つた。スペートのキングを彼等はいつでも親爺と称してゐた。
「手紙!」と細君が、不興な顔つきで云つた。直ぐに彼は、母からだと悟つた。――凡そ彼は、近親の手紙を喜ばなかつた。殊に母のは閉口した。その内容の如何に関はらず、いつの時でも変な恐怖と救はれ難い憂鬱とを交々感ずるのが常だつた。東京の生活を切りあげてから暫く両親のそばに住んでゐたので、この厭な気持に久しく出遇はなかつたが、四月以来また離れて暮すやうになつてからは、少くとも一ト月に一回は母からの音信に接しなければならなかつた。
 彼は、いつもの通り云ひ難い冷汗を忍んで慌てゝ読み下した。(その日のは彼がスペシァルな要求をしたのに対する、スペシァルな返事だつた。)
「拝啓 先日の敬さんからのお言伝は聞き及び候 皆々至極壮健の由安堵いたし候 猶この上とも十分に注意せられ度候 さて御申越の金子は本日は最早時間なければ明朝出させ申すべく或は石川に持たせつかはすべく候
 父上は滅多に御帰館なく稀に帰れば暴言の極にて如何とも術なく沁々と閉口仕り候
 今や私もあきれはて候故万事を放擲してこの身の始末致す覚悟に御座候 父上の憤りは主に御身に向けられる憤りの如くに考へられ候
 御身のことを申すと父上は形相を変へ一文たりとも余計なものを与へなば承知せぬぞといきまき居り候
 さて私も兼々の計画通り今回一生の思ひ出に富士登山を試むべく明十二日午前八時当地出発の予定に御座候 伴れは松崎氏 寛一 栄二 滝子 冬子等同行六人に候 私も承知の体故いかゞとは存じ候へども運を天に任せ決行の次第にて、若しもの時は後事よろしくお頼み申し候 尚私所有の遺物は大部分栄二へ御譲り下され度願上候
 父上は当分帰宅なき様子にて決して依頼心を起すことなく御身も自活の道を講ぜられ度願上候若し無事帰宅せば私も御身の滞在中その地へ参り種々心残りのこと伝へ置きたく思ひ居り候
    八月十日夜認む[#地から2字上げ]母より
  信一殿御許へ
 読み終ると彼は、慌てゝ座敷へ駈けあがり手紙は机の抽出に投げ込み、何か用あり気に一寸玄関へ走り、見るからにワザとらしい何気なさを装つて宮田の前に坐つた。
 ずつと勝ち続けてゐた勝負だつたが、それから三番も手合せしても彼は負け続けた。
 いかにもありさうな、そして安ツぽくシンボリカルな小説の結末のやうで、彼は可笑しかつた。――そして身辺の多くの事柄を、稍ともすればそんな風に不遜な考へ方をしようとする自分をかへりみて、身の縮まる思ひをした。

[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]

 九月一日には、またと無い大地震が起つた。幸ひ家は潰れなかつたので、家のなかで彼は当分蒼くなつて震へてゐた。
 小田原では母の家だけが辛うじて残り、他は凡て焼けてしまつた。
 貸家とか土地とかで生活してゐた彼の父は、無一物になつて、彼が初めて帰つて見ると、蝉の脱け殻のやうな顔つきでぼんやりしてゐた。
 父は、妾の家族を抱へ込んで途方に暮れ、焼けあとに掘立小屋を拵へる手伝ひをしてゐた。母だけは、自分の所有になつてゐる家が残つたので、父の方などには一文も金を遣らないと云つて、独りで住んでゐた。
 父は、女にやる金がなくて弱つたもので、思案の揚句その掘立小屋で居酒屋を初めさせた。
 或晩、彼がその小屋を訪れると今迄とは打つて変つた態度で父は彼を迎へた。そして久し振りに二人で酒を飲んだ。
「今にこゝに大きなホテルを建てるよ。そしたらお前はその支配人にならないか。」
 そんなことを父は話して、彼を苦笑させた。何とかひとつ皮肉を云つてやり度い気がしたが、遂々出なかつた。
 その後彼は東京に来て、或る新聞社の社会部記者となつて華々しい活動を始めた。間もなく彼は、その非凡な手腕を同僚に認められて、社から大いに重要視された。彼は、生れて初めて感じた得々たる気持で、燕の如く身軽に立ちはたらいた。
 初冬らしい麗らかな日だつた。彼は口笛を吹きながら、ステーションへ急いだ。二タ月振りで小田原へ帰るのだつた。……どんな風に誇張して、得々たる自分の功蹟を説明してやらうか、何と親父の奴が舌を捲いて仰天することだらう! それにしても今迄いろ/\なことで癪に触つてゐるから、どんなかたちで、どんな皮肉を浴せてやらうか? 阿母もひとつ何とか苛めてやらう、この俺を信用もしないで、細君にまで辛く当つたりしたから、此方もひとつ遠廻しの厭がらせを試みてやらう。……彼は、そんな妄想に耽つて胸をワクワクと躍らせた。
 彼は、片手に例の「スプリングコート」を抱へてゐた。いくらか冷々したが、それを看て往来を歩く気にはなれなかつた。
 これは、つい此間熱海から届いた行李の中に入つてゐたのだ。
 帰りがけに、この古コートを父の掘立小屋に何気なく置き忘れて来てやらう――彼は、さういふ量見だつた。
 彼は、鼻頭をあかくしてセツセツとステーションを眼指して歩いて行つた。[#地から1字上げ](十二年十二月)



底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
   
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