失敬だ。うす汚い感じがする……」
 無論彼の言葉は、横腹に穴があいてゐて何の力もなかつた。云ふまでもないことだが、彼自らが今自分で細君を非難した文句に当るべき程の男なのだ。これも余計だが、実際彼は裸体の彫刻を見ると、先づ恥づべき個所に注目するのだつた。
「そんな手前勝手は通りませんよ。自分が云ひ度い放題なことを云つてゐて、創作もないもんだ。それにあゝいふことを書くなんて、まつたく外聞が悪いわ。親の恥を天下に……」
「黙れツ!」と彼は叱つた。
「何さ、その顔は! 小説なら小説らしくちやんとしたものを書きなさい。あんなものを書いてゐるうちは何時までたつたつて有名になんてなりツこない。それが証拠にはあなたのものは一遍だつて誉められたことなんてありやしないぢやありませんか。」
「よくそんなことが解るね。」
 努めて白々しく呟いたが彼は一寸気が挫けた。小説家志望なんて一日も早く断念した方が好ささうな気がした。それさへ止めれば斯うまで親達に馬鹿にされもせずに、何とか済むだらう……などとも思つた。
「いくら妾だつて新聞の批評位ゐ、読みますわよ。」
「新聞の批評なんて駄目だ。」
「だつてあれを書く人は、皆なあなたよりは偉い人ばかしでせう。――それにしても妾一遍もあなたの小説が誉められてゐるのを見たことありませんよ。」
「中戸川吉二と柏村次郎には相当誉められてるよ。」
「お友達ぢや駄目だわ。」
「俺は友達の批評が一番好きなんだ。」
「それは負け惜み――」
「もう小説の話は止さう。」と彼は、静かに呟いた。その彼の様子が如何にもしをらしかつたので、細君の心はいきなり父の方へ向つた。
「ほんとうに此間は妾、口惜しかつたのよ。」
「もう幾度も聞かされて、よく解つたよ。俺だつて口惜しいと思つてるさ。親父があんな馬鹿な真似さへしてゐなけりや、俺だつて斯んな処になんて住ひ度くはないんだ。」
 さう云ふと同時に彼は、気恥しくなつて、海の方へ眼を反らした。……友達などには、長篇小説を書く為に来てゐるんだとか、東京に飽きて小田原に引ツ込んだが、其処も嫌になつたから、思ひ切つて斯んな遠くに移つて見たとか……などと如何にも体裁よく意味ありげな吹聴をしてゐるが、内実と来たら、良人が無能の為に細君が姑に苦しい思ひをしたり、父の不行蹟の為に家庭が収まらず、親の争ひを倅が見るに忍びなかつたり、「彼《あれ》が家に居る間は、断じて帰らない。顔を見るのも嫌だ。」などと父が彼を罵つたといふことを聞いたり……そんなわけで這々《はう/\》の態で彼は、春以来熱海へ逃げ延びたのだ。彼だけは、一度も小田原へ帰らなかつた。だがいろ/\な風聞が伝はつた。彼が居なくなつてからは割合に多く父が帰宅するとか、帰れば必ず一度は激しい夫婦争ひをするとか――。
「どつちもどつちで、滑稽な憐むべき人物だ。」
 彼は、両親をそんな風に断定して、愚かな観察を享楽するのだつた。本を読むでもなし、また小説なんて書く気持は毛頭起らなかつた。それにしても此方へ来て以来の退屈さ加減は夥しかつた。温泉に浸つたつて逆上《のぼ》せるばかしだし、風景を見て慰められる質でもなし、散歩は嫌ひだし、また独り芸術的な思索に耽るなんていふ落つきは生れつき持ち合はせなかつたし、まつたく彼は、日々その身を持てあますばかしだ。実家に居てあの[#「あの」に傍点]苦しみに忍ぶことゝ、此方でこの退屈と戦ふことゝ、どつちが苦しいか比べて見れば、あつちの方は相手が人間であるだけ兎も角賑やかで面白かつた位にさへ、思はれるのだつた。
「でも妾は、お母さんと一処に暮すことも御免だわ。」
「そりやア、さうだらう。」と彼は、易々と点頭《うなづ》いた。彼は、細君の場合とは別な意味からでも、いろ/\母の嫌な性質を、それはもう幼少の頃から秘かに認めてゐた。時々彼は、父が外国へなど行つた原因は母にあるんぢやないか知ら? と思つたり、また変に武士の娘を気取つて堪らない切り口上で亭主を説伏させやうとしたりする様などを眺めると、彼はゾツゾツと寒けを覚えて「これぢや親父の奴もさぞやりきれねエだらう。」と父に同情する場合もあつた。
「お父さんがよくお母さんのことを、学校先生なんてしたから変になつちやつたんだとか、先生根生で意固地だとかつて云ふけれど、まつたく変に優しいところと、妙に意地悪のところと別々なのね。」
「うむ、さうだ。」
 彼が余り易々と受け容れたので、細君は一寸バツ[#「バツ」に傍点]が悪くなつて、
「けど、十何年も留守居をさせられては誰だつて変にもなるわね。小学校なんかに務めて気を紛らせてゐたのね。」などと呟いた。
「どうだか俺は知らんよ。――だが、つまり生れつきあゝいふ性質なんだらうさ。」と彼は、相当の思想を持つてゐる者のやうな尤もらしい表情をした。
「あなた、妾をどう思ふ。」
 突然細君が、さう訊ねた。彼は、一寸返答に迷つたが、強ひて考へて見ると煩さゝの方が余計だつたので、
「近頃、やりきれなくなつた。」と明らさまに答へた。
「ぢや、どうするの。お金さへあればお父さんのやうなことを始める?」
 彼は、にや/\して返答しなかつた。一寸親父が羨しい気もした。若し金があつても、彼にはそんな運には出会へさうもない気がした。
「そりやア妾への厭がらせでせう、ちやんと解つてる。」
「今、俺は少しもふざけてはゐないよ。」と彼は、きつぱり断つた。
「それは別として、これから家のことを小説に書くだけは止めなさいね。お父さんの怒り方はそれはそれは素晴しいわよ。今度若しあなたが出会へば、屹度一つ位ゐ……」と彼女は拳固を示して「やられるわよ。」と云つた。
 細君にそんなことを、くどく聞かされてゐるうちに彼の心はだん/\変つてきた。まさかと高を括つてゐた小説を読まれて、何より辟易してゐた気持が、皮肉なかたちでほぐれ始めた。彼は、父の憤怒の姿を想像して、快感を覚えた。……余りこの俺を馬鹿にしたり、年甲斐もなく女などの事件で家庭に風波を起させたり……親爺よ、みんなお主が不量見なんだ、俺の小説を読んで、どうだい、驚いたらう、斯ういふ因果な倅を持つて、さぞ/\白昼往来を歩くのがきまりが悪いだらうよ、態《ざま》ア見やがれ――彼は、さう云つてやりたかつた。――それにしても小説なんていふ手温く下等な手段でなくて、もつと皮肉で痛快な厭がらせをやつてやりたいものだ――と彼は思つた。
 いつの間にか細君は、独りでビールを一本平げてしまつて、顔をほてらせてゐた。こんなことは珍らしかつた。彼は、自分で勝手もとから一升壜を持ち出して来て、頻りに酒を飲み続けた。
「妾、ちつとも酔はないわ、何だかもつと飲んで見たいからそれを飲ませて頂戴な。」
 彼女は、酔つてゐるかどうかを考へてゐるらしく眼を瞑つて、ちよきんと脊骨を延して坐つた。若し普段なら一撃の許に彼は退けてしまつたが、彼も妙に気持が浮の空になつて、その上陰気でならなかつた為か、少しも細君に逆はなかつた。
 一時間の後、彼はぐでん/\に酔つぱらつてしまつた。尤も細君の方は、酒の酔なんて経験したこともなかつたから、表面はイヤに固くしやちこ張つてゐた。
「どうだい、何か素晴しく面白いことはないかね。」
 彼は、酔つて来るといつでも斯んなことを云つたが、自分も酔つてゐるので細君もそんな気になつて、初めて、
「さうね。」と徒らな思案をめぐらせた。
「海岸にカフェーが出来たね。あそこに東京者らしいハイカラな女が居るぜ。行つて見やうか。」
「行きませうか。」
「いや、田舎ツペの青年が来て居るだらうから不愉快だな。」
「ぢや、たゞ海へ降りて見ませうか。」
「そんなこと真平だ。飲む事か、喰ふ事か……何しろ賑やかなことでなければ御免だ。」
「妾、折角夏服を拵へたんだから一遍着て見たいわ、斯んな晩でなければとても実行出来ないからね。」
「あゝ、それは好い。」と彼は気附いたやうに云つた。そんなものを拵へたのが彼に知れゝば、酷く彼が怒るのは解り切つてゐたので今日まで細君は秘してゐたのだ。彼女は斯ういふ機会に、斯う高飛車に云へばその儘、通つてしまふ彼の欠点を知つてゐた。だが、それにしても今日は良人がイヤに機嫌が好いので一寸薄気味悪くもあつた。
「そしてこれから自働車を呼んで、ホテルへ行かう。」と彼は云つた。森を三つばかり越えた嶮崖の一端に西洋風のホテルがあつた。斯んな所には珍らしく明るい家だつた。
「でも今月このお金を費つてしまへば、もう貰へないわよ。」
「関ふもんか、今日はひとつウンと贅沢をして、あそこへ泊つてしまはう。金なんて心配するねエ……おふくろがケチケチ云へば友達に借りるよ。」と彼は、大変な威勢を示した。
 彼は、腕組をして細君の仕度を眺めてゐた。彼女は、怪し気な足取りで、だが、きつと彼の留守の時に幾度も着てでもみたんだらう、割合に手ツ取り早く着こなした。
「ふゝん、仲々好く似合ふね。洋装の日本婦人は大概顔の拙い奴が多いが、そしてお前もその仲間だが、体の格好は仲々見あげたよ。」
 彼は、白々しくそんなお世辞を振りまいた。――そして、いざ出かける時になつて、
「それぢや寒くはないかね。俺のこのコートを貸してやらうか。」と云つた。
「馬鹿々々しい、そんな汚い、男のコートなんて。」と細君は耳も借さなかつた。……彼はゾツと身ぶるひした。冷汗が流れた。「此奴は余ツ程どうかしてゐやアがる。まるで芝居でもしてゐる気だ。馬鹿が/\。」と自分を顧みて、彼はもう一歩も外へ出るのは嫌になつた。
 彼は、酔ひ潰れて畳に転がつてゐた。……いくらか眠つて、どうも夢を見たらしい……と彼は口のうちで呟きながら、死んだやうな熟睡に堕ちた。――それぎり細君から洋服の話を聞かないから、或は彼の想像通り夢だつたのかも知れない。

[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]

 彼が中学の頃の友達だつた宮田が、五六日前から滞在してゐた。宮田は泳ぎ好きで、近頃ではもう彼は海へ行くのも飽きてゐたのだが、宮田と一緒に毎日出掛けた。日盛りになると彼の焦《や》けた背中は、塩煎餠のやうにビリビリと干からびて水に浸さずには居られなくもあつた。
 初島へ三里、大島へ十八里と誌した棒杭が立つてゐるが、素晴しく朗らかな天気で、三里の初島も十八里の大島も何の差別もなく、青白い肌を無頓着に太陽に曝してゐた。赤い蜻蛉が無数に砂の上に群り舞つてゐた。微風もなく、暑さが凝《ぢつ》と停滞してゐるばかしなので、蜻蛉の影が砂地にはつきり写つた。――宮田は沖を悠々と泳いでゐた。彼は、そんなに泳げないので、浮標の近所で、腕を結んで逆さまに浮んだ。水が耳を覆つて何の音も聞えない。空は青く、だがあまり碧く澄み渡つてゐるので、彼は眩暈《めまひ》を感じた。彼は、慌てて犬泳ぎで陸へ這ひあがり、要心深く砂地に腹を温めた。宮田は、鮮やかな抜手を切つて頻りに泳いでゐた。あの位ゐ泳げたらさぞ愉快だらうが――などと彼は思つた。
「もう船が出る時分だね。」
 さう云ひながら、あがつて来ると宮田は、彼の傍に寝転んだ。
「着いてから行つて丁度好いよ。」
 二三日うちに全国庭球大会といふ競技があるさうだつた。宮田の兄は小田原クラブの選手で、三時の船で来るさうだつた。
 庭球大会の日には、彼も見物に行く約束をしたが、寝坊して行き損つた。午後から行かうとも思つたが、うつかり昼寝をしてしまつて、帰つて来た二人の宮田に起された。宮田の兄は、ぐつたりと疲労してユニフォームの儘大の字なりに座敷に寝転んだ。小田原組が優勝してカップを獲た、と自慢した。
 いつもの通り彼は、壜詰の酒や缶詰の料理などで酒盛りを始めた。弟の宮田は、酒好きの癖に、兄貴の前では一滴も飲まなかつた。馬鹿な放蕩をして、一年ばかし勘当されて漸く帰参が叶つたばかりだといふ話だつた。道理で弟の宮田の奴イヤにおとなしく兄貴の云ふことをヘイヘイと諾《き》いてゐやアがる――と彼は思つた。
 彼は、それが一寸気の毒にもなり、白々しくもあつたので、
「ほんとに飲まないのか。」と弟の宮田を見あげて苦笑した。
 宮田は、笑つて点頭《うなづ》いた
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング