りませんか。前には決して道楽なんてしなかつたんですつてね。……」
「うん、さうだよ。」
 彼は、さうは思はなかつたが、好いお父さんが女の為に悪くなつたといふことで、細君を残念がらしてやりたかつた。
「外国に十何年も居る間だつて、それはそれは潔癖だつたんですつてね。始終あなたとお母さんを思ふ手紙ばかし寄越してゐたといふぢやありませんか。」
「まアそんなわけかね……」
 彼は皮肉な気がしたが一体それは誰に向けるべき皮肉か、ちよつと考へに迷つた。後に小憎らしい父親の顔が髣髴としてきた。
「あなたが『熱海へ』とかといふ小説みたいなものを書いたでせう?」
「お前読んだのか?」彼は、ギクリとして問ひ返した。
「妾は、とつくに読んだわ。妾が読んだのは好いとして、それをお父さんが読んだんですつて!」
「ヤツ!」と彼は、思はず叫んだ。そしてテレ臭さの余り誰に云ふともなく、
「馬鹿だなア!」と呟いた。
「それもね、たゞ読んだのぢやなくつて、杉村さんがその雑誌を持つて来てお父さんの前でペラペラと読みあげたんですツて……」
『熱海へ』といふのは彼の最も新しい創作だつた。事柄は実際の彼の家庭の空気をスケッチ風に書いたのだ。尤も彼は、その小説の主人公である自分だけは「私」としてはきまりが悪いもので「彼は――」「彼は――」といふ風に出来るだけ客観的に書いたが、彼の父や母や細君になると、さうはしなかつた。五十二歳にもなつた父親が遊蕩を始め、妾のあることを母に発見されて悶着が起つたり、そして彼等の長男である即ち「彼が――」その間で自分の両親を軽蔑しきつてゐる話を書いたのだつた。彼自身、そんなものが家の者の眼に触れようなどとは夢にも思つてゐなかつたのだ。
「あれぢや怒るのも無理はない。」と細君は、呟いたが自分も腹ではあまり好かない彼の父や母のことを、普段はオクビにも出さない彼が、小説の場合になるとさん/″\にやツつけてゐるので、一寸好い気持になつたらしく、自分のやられてゐることも忘れて、苦笑した。
 彼はどうすることも出来ず怖ろしく六ヶ敷い顔をして切りに盃を重ねてゐたが、やがて斯んなことを喋舌り出した。
「創作と実生活とを混同するやうな手合は、素晴しい芸術品であるべき裸体の彫刻を見て淫らな聯想をするのと同じだ。言語道断な連中だ。さういふ奴等が近親に在ることは不幸の至りだ。第一お前が俺の小説を読むなんて失敬だ。うす汚い感じがする……」
 無論彼の言葉は、横腹に穴があいてゐて何の力もなかつた。云ふまでもないことだが、彼自らが今自分で細君を非難した文句に当るべき程の男なのだ。これも余計だが、実際彼は裸体の彫刻を見ると、先づ恥づべき個所に注目するのだつた。
「そんな手前勝手は通りませんよ。自分が云ひ度い放題なことを云つてゐて、創作もないもんだ。それにあゝいふことを書くなんて、まつたく外聞が悪いわ。親の恥を天下に……」
「黙れツ!」と彼は叱つた。
「何さ、その顔は! 小説なら小説らしくちやんとしたものを書きなさい。あんなものを書いてゐるうちは何時までたつたつて有名になんてなりツこない。それが証拠にはあなたのものは一遍だつて誉められたことなんてありやしないぢやありませんか。」
「よくそんなことが解るね。」
 努めて白々しく呟いたが彼は一寸気が挫けた。小説家志望なんて一日も早く断念した方が好ささうな気がした。それさへ止めれば斯うまで親達に馬鹿にされもせずに、何とか済むだらう……などとも思つた。
「いくら妾だつて新聞の批評位ゐ、読みますわよ。」
「新聞の批評なんて駄目だ。」
「だつてあれを書く人は、皆なあなたよりは偉い人ばかしでせう。――それにしても妾一遍もあなたの小説が誉められてゐるのを見たことありませんよ。」
「中戸川吉二と柏村次郎には相当誉められてるよ。」
「お友達ぢや駄目だわ。」
「俺は友達の批評が一番好きなんだ。」
「それは負け惜み――」
「もう小説の話は止さう。」と彼は、静かに呟いた。その彼の様子が如何にもしをらしかつたので、細君の心はいきなり父の方へ向つた。
「ほんとうに此間は妾、口惜しかつたのよ。」
「もう幾度も聞かされて、よく解つたよ。俺だつて口惜しいと思つてるさ。親父があんな馬鹿な真似さへしてゐなけりや、俺だつて斯んな処になんて住ひ度くはないんだ。」
 さう云ふと同時に彼は、気恥しくなつて、海の方へ眼を反らした。……友達などには、長篇小説を書く為に来てゐるんだとか、東京に飽きて小田原に引ツ込んだが、其処も嫌になつたから、思ひ切つて斯んな遠くに移つて見たとか……などと如何にも体裁よく意味ありげな吹聴をしてゐるが、内実と来たら、良人が無能の為に細君が姑に苦しい思ひをしたり、父の不行蹟の為に家庭が収まらず、親の争ひを倅が見るに忍びなかつたり、「彼《あれ》が家に居る
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