間は、断じて帰らない。顔を見るのも嫌だ。」などと父が彼を罵つたといふことを聞いたり……そんなわけで這々《はう/\》の態で彼は、春以来熱海へ逃げ延びたのだ。彼だけは、一度も小田原へ帰らなかつた。だがいろ/\な風聞が伝はつた。彼が居なくなつてからは割合に多く父が帰宅するとか、帰れば必ず一度は激しい夫婦争ひをするとか――。
「どつちもどつちで、滑稽な憐むべき人物だ。」
彼は、両親をそんな風に断定して、愚かな観察を享楽するのだつた。本を読むでもなし、また小説なんて書く気持は毛頭起らなかつた。それにしても此方へ来て以来の退屈さ加減は夥しかつた。温泉に浸つたつて逆上《のぼ》せるばかしだし、風景を見て慰められる質でもなし、散歩は嫌ひだし、また独り芸術的な思索に耽るなんていふ落つきは生れつき持ち合はせなかつたし、まつたく彼は、日々その身を持てあますばかしだ。実家に居てあの[#「あの」に傍点]苦しみに忍ぶことゝ、此方でこの退屈と戦ふことゝ、どつちが苦しいか比べて見れば、あつちの方は相手が人間であるだけ兎も角賑やかで面白かつた位にさへ、思はれるのだつた。
「でも妾は、お母さんと一処に暮すことも御免だわ。」
「そりやア、さうだらう。」と彼は、易々と点頭《うなづ》いた。彼は、細君の場合とは別な意味からでも、いろ/\母の嫌な性質を、それはもう幼少の頃から秘かに認めてゐた。時々彼は、父が外国へなど行つた原因は母にあるんぢやないか知ら? と思つたり、また変に武士の娘を気取つて堪らない切り口上で亭主を説伏させやうとしたりする様などを眺めると、彼はゾツゾツと寒けを覚えて「これぢや親父の奴もさぞやりきれねエだらう。」と父に同情する場合もあつた。
「お父さんがよくお母さんのことを、学校先生なんてしたから変になつちやつたんだとか、先生根生で意固地だとかつて云ふけれど、まつたく変に優しいところと、妙に意地悪のところと別々なのね。」
「うむ、さうだ。」
彼が余り易々と受け容れたので、細君は一寸バツ[#「バツ」に傍点]が悪くなつて、
「けど、十何年も留守居をさせられては誰だつて変にもなるわね。小学校なんかに務めて気を紛らせてゐたのね。」などと呟いた。
「どうだか俺は知らんよ。――だが、つまり生れつきあゝいふ性質なんだらうさ。」と彼は、相当の思想を持つてゐる者のやうな尤もらしい表情をした。
「あなた、妾をどう思ふ。」
突然細君が、さう訊ねた。彼は、一寸返答に迷つたが、強ひて考へて見ると煩さゝの方が余計だつたので、
「近頃、やりきれなくなつた。」と明らさまに答へた。
「ぢや、どうするの。お金さへあればお父さんのやうなことを始める?」
彼は、にや/\して返答しなかつた。一寸親父が羨しい気もした。若し金があつても、彼にはそんな運には出会へさうもない気がした。
「そりやア妾への厭がらせでせう、ちやんと解つてる。」
「今、俺は少しもふざけてはゐないよ。」と彼は、きつぱり断つた。
「それは別として、これから家のことを小説に書くだけは止めなさいね。お父さんの怒り方はそれはそれは素晴しいわよ。今度若しあなたが出会へば、屹度一つ位ゐ……」と彼女は拳固を示して「やられるわよ。」と云つた。
細君にそんなことを、くどく聞かされてゐるうちに彼の心はだん/\変つてきた。まさかと高を括つてゐた小説を読まれて、何より辟易してゐた気持が、皮肉なかたちでほぐれ始めた。彼は、父の憤怒の姿を想像して、快感を覚えた。……余りこの俺を馬鹿にしたり、年甲斐もなく女などの事件で家庭に風波を起させたり……親爺よ、みんなお主が不量見なんだ、俺の小説を読んで、どうだい、驚いたらう、斯ういふ因果な倅を持つて、さぞ/\白昼往来を歩くのがきまりが悪いだらうよ、態《ざま》ア見やがれ――彼は、さう云つてやりたかつた。――それにしても小説なんていふ手温く下等な手段でなくて、もつと皮肉で痛快な厭がらせをやつてやりたいものだ――と彼は思つた。
いつの間にか細君は、独りでビールを一本平げてしまつて、顔をほてらせてゐた。こんなことは珍らしかつた。彼は、自分で勝手もとから一升壜を持ち出して来て、頻りに酒を飲み続けた。
「妾、ちつとも酔はないわ、何だかもつと飲んで見たいからそれを飲ませて頂戴な。」
彼女は、酔つてゐるかどうかを考へてゐるらしく眼を瞑つて、ちよきんと脊骨を延して坐つた。若し普段なら一撃の許に彼は退けてしまつたが、彼も妙に気持が浮の空になつて、その上陰気でならなかつた為か、少しも細君に逆はなかつた。
一時間の後、彼はぐでん/\に酔つぱらつてしまつた。尤も細君の方は、酒の酔なんて経験したこともなかつたから、表面はイヤに固くしやちこ張つてゐた。
「どうだい、何か素晴しく面白いことはないかね。」
彼は、酔つて来るといつでも斯ん
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