なことを云つたが、自分も酔つてゐるので細君もそんな気になつて、初めて、
「さうね。」と徒らな思案をめぐらせた。
「海岸にカフェーが出来たね。あそこに東京者らしいハイカラな女が居るぜ。行つて見やうか。」
「行きませうか。」
「いや、田舎ツペの青年が来て居るだらうから不愉快だな。」
「ぢや、たゞ海へ降りて見ませうか。」
「そんなこと真平だ。飲む事か、喰ふ事か……何しろ賑やかなことでなければ御免だ。」
「妾、折角夏服を拵へたんだから一遍着て見たいわ、斯んな晩でなければとても実行出来ないからね。」
「あゝ、それは好い。」と彼は気附いたやうに云つた。そんなものを拵へたのが彼に知れゝば、酷く彼が怒るのは解り切つてゐたので今日まで細君は秘してゐたのだ。彼女は斯ういふ機会に、斯う高飛車に云へばその儘、通つてしまふ彼の欠点を知つてゐた。だが、それにしても今日は良人がイヤに機嫌が好いので一寸薄気味悪くもあつた。
「そしてこれから自働車を呼んで、ホテルへ行かう。」と彼は云つた。森を三つばかり越えた嶮崖の一端に西洋風のホテルがあつた。斯んな所には珍らしく明るい家だつた。
「でも今月このお金を費つてしまへば、もう貰へないわよ。」
「関ふもんか、今日はひとつウンと贅沢をして、あそこへ泊つてしまはう。金なんて心配するねエ……おふくろがケチケチ云へば友達に借りるよ。」と彼は、大変な威勢を示した。
彼は、腕組をして細君の仕度を眺めてゐた。彼女は、怪し気な足取りで、だが、きつと彼の留守の時に幾度も着てでもみたんだらう、割合に手ツ取り早く着こなした。
「ふゝん、仲々好く似合ふね。洋装の日本婦人は大概顔の拙い奴が多いが、そしてお前もその仲間だが、体の格好は仲々見あげたよ。」
彼は、白々しくそんなお世辞を振りまいた。――そして、いざ出かける時になつて、
「それぢや寒くはないかね。俺のこのコートを貸してやらうか。」と云つた。
「馬鹿々々しい、そんな汚い、男のコートなんて。」と細君は耳も借さなかつた。……彼はゾツと身ぶるひした。冷汗が流れた。「此奴は余ツ程どうかしてゐやアがる。まるで芝居でもしてゐる気だ。馬鹿が/\。」と自分を顧みて、彼はもう一歩も外へ出るのは嫌になつた。
彼は、酔ひ潰れて畳に転がつてゐた。……いくらか眠つて、どうも夢を見たらしい……と彼は口のうちで呟きながら、死んだやうな熟睡に堕ちた。――それぎり細君から洋服の話を聞かないから、或は彼の想像通り夢だつたのかも知れない。
[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]
彼が中学の頃の友達だつた宮田が、五六日前から滞在してゐた。宮田は泳ぎ好きで、近頃ではもう彼は海へ行くのも飽きてゐたのだが、宮田と一緒に毎日出掛けた。日盛りになると彼の焦《や》けた背中は、塩煎餠のやうにビリビリと干からびて水に浸さずには居られなくもあつた。
初島へ三里、大島へ十八里と誌した棒杭が立つてゐるが、素晴しく朗らかな天気で、三里の初島も十八里の大島も何の差別もなく、青白い肌を無頓着に太陽に曝してゐた。赤い蜻蛉が無数に砂の上に群り舞つてゐた。微風もなく、暑さが凝《ぢつ》と停滞してゐるばかしなので、蜻蛉の影が砂地にはつきり写つた。――宮田は沖を悠々と泳いでゐた。彼は、そんなに泳げないので、浮標の近所で、腕を結んで逆さまに浮んだ。水が耳を覆つて何の音も聞えない。空は青く、だがあまり碧く澄み渡つてゐるので、彼は眩暈《めまひ》を感じた。彼は、慌てて犬泳ぎで陸へ這ひあがり、要心深く砂地に腹を温めた。宮田は、鮮やかな抜手を切つて頻りに泳いでゐた。あの位ゐ泳げたらさぞ愉快だらうが――などと彼は思つた。
「もう船が出る時分だね。」
さう云ひながら、あがつて来ると宮田は、彼の傍に寝転んだ。
「着いてから行つて丁度好いよ。」
二三日うちに全国庭球大会といふ競技があるさうだつた。宮田の兄は小田原クラブの選手で、三時の船で来るさうだつた。
庭球大会の日には、彼も見物に行く約束をしたが、寝坊して行き損つた。午後から行かうとも思つたが、うつかり昼寝をしてしまつて、帰つて来た二人の宮田に起された。宮田の兄は、ぐつたりと疲労してユニフォームの儘大の字なりに座敷に寝転んだ。小田原組が優勝してカップを獲た、と自慢した。
いつもの通り彼は、壜詰の酒や缶詰の料理などで酒盛りを始めた。弟の宮田は、酒好きの癖に、兄貴の前では一滴も飲まなかつた。馬鹿な放蕩をして、一年ばかし勘当されて漸く帰参が叶つたばかりだといふ話だつた。道理で弟の宮田の奴イヤにおとなしく兄貴の云ふことをヘイヘイと諾《き》いてゐやアがる――と彼は思つた。
彼は、それが一寸気の毒にもなり、白々しくもあつたので、
「ほんとに飲まないのか。」と弟の宮田を見あげて苦笑した。
宮田は、笑つて点頭《うなづ》いた
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