ないんだ。その通りの型にして新しいのを一着拵へるから、それと君交換して呉れないか?」
「厭だなア!」と彼は、さもさも残り惜しさうに答へた。今が今迄彼は厭々ながらそのコートを着てゐた。他に外套がなかつたので内心恥しい思ひを忍んで斯んなものを着てゐるのだつた。だがこの男にそんなことを云はれると、持前の卑しい虚栄心が出て、――俺はワザと斯んなに乱雑な服装をしてゐるんだ、ボンクラな奴には解るまいが肚では相当身なりについてもたくらんでゐるんだぞ――といふ、まつたく咄嗟の考へに気づいたのだつた。オーバコートを拵へる為に母から貰つた金を蕩尽して了つたので、よんどころなく冬の真中だといふのに、そんなクレバネット製の裏もない古コートを着用してゐたのだ。実家へ帰つた時、父の古外套でも持ち出すつもりで、そつと物置へ忍び込んでトランクを掻き廻した時、底から探し出したものだつた。
「僕だつて君、多少気に入つてるからこそ斯うして着用に及んでるのさ。でなくて誰が酔狂にこの寒さに斯んなものを……」と彼は恬然としてうそぶいた。
「やつぱりさうだつたのかなア! あゝ、悲観した。」
 友達は、仰山な地団太を踏んだ。――友達に別れると彼は、眉を顰めて舌を鳴した。「斯んな物、貰ひ手があれば喜んで進呈したら好かつたのに――」
 ………………
 彼は、寝床の中でそんな回想に耽つた。半ばは夢らしかつた。五、六年も前の追憶だ。――そんなに古い話で、全く忘れてゐたのを、細君の余計なお世話から、突然この古コートが彼の身辺に現れたのだ。――彼は、此頃午後になると大概海で暮した。往来を通らず、短い松原を脱けると直ぐに海なので、いつでも彼は素ツ裸で出掛けた。それを細君が嫌つて、一週間も前に彼の用事で彼の実家へ遣らせられた時に、
「家ぢや土用干だつたので、長持の底から斯んなものが出て来たの。多分あなたが学生時分に使つたんでせう? 随分ボロね。でもこれなら面倒がなくて好いでせう。海へ行く時に着て行きなさいよ。」と云つて持つて来た。
「うむ、それは俺のだ。」
 彼は、苦笑を怺へて、きつぱりと答へた。以来彼は、細君の言葉に従つて、海へ行く時には必らず裸の上にはおつて行つた。
「とう/\このコートが、実は女物なんだつて事は誰にも気が附かれずに済んで了つた。」
 さう思つて彼は、一寸皮肉な微笑を洩したかつた。これは混血児の妹のレインコートなのだ。彼が、トランクの底からこれを見つけ出した時、娘から父に与へた手紙がポケットの隅にあつた。手紙の内容は、大したものではなくたしかピクニックへ誘つたものだつた。そんなものなので父もうつかりして棄て損つたのだらう。――父の写真帳に、このコートを着た妹と父のがあつた。友人の娘だ――などゝ父が母に説明したことを、彼は覚えてゐた。……彼が着て見ると、和服の丈と殆ど同じだつた。……秘密、秘密……さう思つて彼は怖ろしかつたが、苦し紛れにそつと東京に持ち帰つた。その晩は独りの部屋で、それを来て鏡に写したり、にやにや笑つたり、通俗小説みたいな想ひに耽つたり、心から涙ぐましい気持になつたりした。――それから膝骨の下あたりに見当をつけ、裾を五六寸鉄でヂョキヂョキと切り落した。翌日服屋へ抱へ込んで、ミシンを懸けさせ、帰りにはもうちやんと着込んで、如何にも自分のものらしい顔付きで、たしかそのまゝ友達を訪問した。三月の末頃だつたか? 何処も冬仕度でその友達とはストーブを囲んで話したが、何んでも相手が眼を円くして、
「いよう! 馬鹿に気が早いね、スプリングコートはしやれてるね。」と云つたから、多分早春の宵だつたんだらう。――まだ世間一般にさういふレインコートが流行しない頃だつたし、加けに色合がそれらしくないので誰もこれが雨外套とは気づかなかつた。

[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]

 食膳を縁側へ持ち出させて、彼は晩酌をやつてゐた。晩酌なんていふ柄ではなかつたが、此方へ移つてからは毎晩細君ばかしを相手にして、ひどい時には夜中の二時三時頃まで出たらめを喋舌つた。喋舌り疲れて、泥酔しないうちは寝なかつた。
「女中だつてあなたの云ふことなんて諾《き》きはしない。」
 伴れて来た女中を自分が帰してしまつた癖に、少しでも自分の動く度数の多さを感ずる毎に、彼女は不平を滾した。若い女中で、往々彼が必要以外に親切な言葉を掛けるのを悟つて、別な口実で細君が追ひ帰してしまつた。
「妾、あのことを考へると口惜しくつて堪らない!」
 細君は、ひとりでビールを飲み始めてゐた。あのことゝ云ふのは彼の親父のことだ。此間彼女が帰つた時、酔ひもしないのに口を極めて父が彼の悪口をさん/″\喋舌つたといふのだ。
「あんな女に引ツ懸けられて、お父さんはもう気が少しどうかなつて了つたのよ。前とすつかり変つてしまつたぢやあ
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