スプリングコート
牧野信一

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)お午《ひる》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)うと/\して
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]

 丘を隔てた海の上から、汽船の笛が鳴り渡つて来た。もう間もなくお午《ひる》だな――彼はさう思つただけで動かなかつた。いつもの通り彼は、まだこの上一時間か二時間はうと/\して過す筈だつた。日が射してまぶしいもので、頭からすつぽりとかひまき[#「かひまき」に傍点]を被つたまゝ凝《ぢつ》と小便を怺へてゐた。硝子戸も障子も惜し気なく明け放されて、蝉が盛んに鳴いてゐた。
「もう暫く眠つてやれ。」
 彼は、たゞさう思つてゐた。
 丁度彼の首と並行の何の飾りもない床の間には、雑誌ばかりが無茶苦茶に散らばつて、隅の方には脱ぎ棄てた儘の汚いコートが丸まつてゐた。
 汽船の笛が、また鳴つた。子供の頃彼は、この笛の音では随分厭な思ひをした。写真だけでしか見知らない外国に居る父のことを想ひ出すのだつた。――その頃の遣瀬なかつた気持を、彼は現在でもはつきりと回想することが出来た。
 彼は枕に顔を埋めて、つい此間もう少しで殴り合にさへならうとした位ゐ野蛮な口論をした父を思つた。
「ヤンキー爺!」
 彼は、そんなに呟いて思はず苦笑した。肚では斯んなに軽蔑したり、また母や細君の前では一ツ端の度胸あり気な口を利くものゝ、いざ親父と対談の場合になると鼠のやうに縮みあがつてグウの音も出ないのである。
 彼は、偶然ずつと前から自分に混血児の妹があるといふことを知つてゐた。無論、それを知つて以来もう五六年にもなるが妹を見たこともなかつた。――汽船の笛を聞くと、妹の空想が拡がつた。――彼は、夢心地で床の間の隅の古びたコートを眺めてゐた。
 ……「君の、そのコートは古いには古いがとても俺――気に入つてしまつたよ。馬鹿気てだぶ[#「だぶ」に傍点]ついてゐるんだが、そのだぶ[#「だぶ」に傍点]つきさ加減に奇妙な調和があるよ。肩の具合だつて斯んなだし、袖だつてそんなに長くつて、どうしたつて君の体に合つてやしないんだが、妙にその合はないところ
次へ
全16ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング